草創期
明治30年〜大正15年

酒田市略年表
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歴史と伝統のある商人まち酒田に、県下で2番目の商業会議所誕生。

 酒田商業会議所の創設は、明治28年(1895)3月改正の「商業会議所条例」に基づいて、30年2月にその開設を申請し、4月30日農商務大臣から許可されたことに始まる。酒田商業会議所の創設時期を全国的にみると、神戸・名古屋・岐阜・東京・大阪・新潟のそれに続くものである。

 酒田商業会議所設立発起人は、小山太吉・本間長三郎・金湖与左衛門・市原平三郎・鐙屋惣太郎・中村太助・須田伝治郎・白崎善吉・阿部久作・荒木粂太郎・西田半三郎・小倉金蔵等であった。

 そもそも商業会議所の設置目的は、1)商業の発達を図る法案の議定、2)商業に関する法律命令その他諸条規の制定・廃止、および施行方法について行政官庁へ意見を開申すること、3)行政官庁からの諮問に対する応答、等を主な任務とすることにあった。その遠因とみられるものは、明治政府が外国との不平等条約改正の際に、経済界の意見を代表する組織の存在が対外的に有効な力になりうると判断し、まずは東京財界の有力者たちに、商業会議所組織の設立を勧めたことにあるといわれている。そして明治11年8月、渋沢栄一・福地源一郎らを中心に、日本最初の商業会議所といえる東京商法会議所が設立され、9月には大阪・兵庫でも商法会議所が設立され、翌12年には横浜・福岡・長崎・熊本等に商法会議所が創設、14年までに全国で34の商法会議所が組織された。この時、山形県内には商法会議所が組織されていなかった。

 商法会議所は、政府からの諮問に対する答申、商品・商況調査、条約改正問題についての建議をおこなったが、やがて商業会議所制度の確立を要望する声が高まり、明治23年9月12日、山県有朋(やまがたありとも)内閣の時に商業会議所条例が公布された。これに伴い、神戸・名古屋をはじめとする全国主要都市に商業会議所が誕生し、25年には、全国組織としての商業会議所連合会活動も始まった。

 28年3月には商業会議所条例が改正され、法人企業にも選挙権と被選挙権が与えられた。この2年後の30年1月に「山形商業会議所」が、続いて4月には「酒田商業会議所」が創設され、33年における全国の商業会議所数は60に達するのである。

 酒田商業会議所は明治30年4月、その本拠地を本町四丁目の現産業会館の所に設置した。同年12月、条例に基づいて商業会議所議員20人を選挙し、初代酒田商業会議所会頭には小山太吉を選出した。35年頃には酒田商業会議所の存続をめぐる論議もあったが、やがて酒田町経済界のリーダーとして重きをなすようになる。

酒田港の衰勢に歯止めをかけた、酒田河口同盟会の結成。

 明治30年代の酒田は、これまでの繁栄・全盛時代には考えられないほどの疲弊と衰微の徴候を見せ始めていた。その要因の一つは、明治27年(1894)10月22日に発生した最上川下流域を震源とする大地震による被災によるものであり、この時、酒田町だけで死者162人、傷者223人、全焼家屋1,747戸、倒潰家屋1,558戸を数えた。二つ目は、日清戦争後の経済拡大に伴って、いろいろな商事会社や倉庫会社、塩・精米・縄・肥料・織物等を扱う会社や三品取引所の設置をみたが、株数の知れた小資本の会社は買占められやすく泡沫(ほうまつ)のごとく倒産するものが現われたことである。三つ目は、36年の奥羽線開通に伴うもので、これにより最上川舟運時代は終わりを告げたといってよい。

 35年11月26日、酒田商業倶楽部に輸出入組合員、艀(はしけ)関係者、回船問屋店主、市中の主なる人たち約70人が参集し、町民大会を開いた。開催の主旨は、「明治18年から続いている内務省直轄最上川改修工事が同36年4月1日を以て山形県へ引継がれるとのことだが、工事完了後は河口も面目を一新して、少なくとも新潟就航船小型『度津丸』くらいは船場町下に繋留(けいりゅう)できるものと待望していた。しかし現在は宮野浦灯台下に繋(つな)がれており、時には沖合いに碇泊して乗客を艀船で運ぶというありさまであり、この程度の修築で県に引継がれては困る」というものであった。

 河口同盟会幹事には中村太助・荒木幸吉・村田与治兵衛の3人が選ばれ、活動に入った。そして翌37年10月、酒田町は最上川河口の深さを3.6メートルに保持するよう県に建議し、国による本格的な河口修築への足掛かりを築いたのである。

文明開化の象徴、鉄道開通と酒田商業会議所。

 一方、内陸交通の進展であるが、明治20年代には鉄道敷設(ふせつ)熱が急速に高まり、日本を縦貫する鉄道が次々と走るようになった。明治39年(1906)3月には「鉄道国有法」が公布され、幹線鉄道は国家によって敷設されることになった。このため鉄道誘致が地方政界においても重大視されるようになった。

 41年12月、酒田商業会議所と仙台商業会議所が、小牛田(こごた)一新庄一酒田間鉄道速成を要請したことから、その促進にも拍車がかかった。2年後の43年1月、酒田商工談話会主催による新庄一酒田線速成大会には70余人が超党派的に参集し、絶対多数派政友会にも請願していくことになった。同年5月には、新庄一酒田間の新酒線(のちの陸羽西線)の測量が始まり、翌44年に着工された。なお、新庄駅を含む奥羽線の方は、36年3月に開通していた。

 大正3年12月24日午後0時、酒田の人々が長い間待ちに待った汽車がついに酒田駅に到着した。「鉄車一過して荘内の天地頓(とみ)に生気を恢復す」(『木鐸』9巻4号)とまで期待されるほどの華やかなデビューであった。新庄一酒田間の鉄道建設費の総額は509万6,694円余である。

 日本海側を走る羽越線は、大正7年(1918)に酒田一鶴岡間、同9年に酒田一吹浦間が開通し、13年7月に新津一秋田間の全線が開通した。同月31日秋田市の千秋公園で羽越線全線開通祝賀会が盛大におこなわれ、会に臨んだ酒田商業会議所会頭・荒木幸吉は、「本鉄道の起工は大正5年のことであり、その後9年間を費やして完工したことは欣喜雀躍(きんきじゃくやく)の至りである。本線は東北線と相対立して裏日本一帯の富源を開拓し、北海道と北陸・関西地方との距離を短縮し、交通運輸に一新起源を画し、文化の促進・産業の伸展に貢献すること、実に偉大である」と祝辞を述べた。

大正初期の内国通運株式会社取引店
大正初期の内国通運株式会社取引店

実業の発展を促進した電気事業の発達と電話の開通。

 「紫電一光空に閃めくが如く覚えて、忽如(こつじょ)として満天の星光落下せし如く(中略)、白昼よりも猶鮮やかに美観盛観壮観の状」(『酒田新聞』)と形容された酒田町初の点灯は、明治41年(1908)11月3日午後7時半であった。

 電気事業については、酒田町営事業となり、40年に日向村大字升田(現・八幡町地内)に出力200キロワットの発電所の建設が始まった。工事費は12万円である。酒田町電気作業所は本町四丁目に置かれた。

 電気の需要は急速に増加し、酒田町営電気では発電所の拡張を進めるが、他町村の供給要請にまでは応ずることができず、大正元年(1912)12月、本町四丁目に飽海電燈所を設立した。飽海電燈所は池田藤弥を名義人とし、荒木彦助・伊藤悦太郎・村田与治兵衛・森重郎・竹内丑松・市原五兵衛が経営に当たった。経営陣は酒田町の政・財界を代表する人々で、電気は酒田町営電気より供給された。6年12月、飽海電燈所を合資会社とした。

 酒田町電気作業所での発電所増設や飽海電燈所による供給でも電力不足は続いた。それで、酒田木材株式会社創立の北原直次郎などにより、大正14年鳥海電力株式会社が設立された。秋田県の鳥海川を利用して、1,949キロワットの発電をおこない、昭和2年(1927)から酒田町電気作業所や飽海電燈所への供給が開始された。

 酒田での官設電話の架設運動は明治41年(1908)1月に始まる。酒田商工談話会では相当の金額を寄付しても官設電話を設置することを決議し、酒田商業会議所に建議した。商業会議所は直ちにその建議を採択し、1月22日付を以て逓信大臣や仙台郵便局長に陳情書を提出した。

 荒木彦助商業会議所会頭を先頭に会議所所員らの激しい運動の結果、9月17日付で逓信省より出願が許可され、早くも11月12日本工事に着工、12月8日に仮通話がおこなわれて成功し、同月16日に本開通となった。

大正末期、大売り出しの大宣伝隊
大正末期、大売り出しの大宣伝隊

 大正に入ると、7年(1918)に仙台、10年に青森・秋田、13年には新潟と通話可能地域は一段と拡大していった(『酒田の電報と電話』)。しかし、加入者は大正6年で310人、同11年で364人、同15年に459人と微増状態が続いている。

 商業活動にとって電話は必需品となってきた。普通電話料の3倍の料金である至急通話も使用されるようになった。酒田一鶴岡間の電話利用は、1カ月の通話度数が平均2,300もあるのに対して、2回線しかなかった。そのためになかなか通じなく、商人たちは商取引に敏活性を欠いたり、商機を失したりすることが多くあった。そこで、大正2年2月に酒田商業会議所の総会において、1回線の増設を請願することを決議した。それでも電話の需要に対して供給が追いつかず、大正11年度でも、酒田局内での電話申込み数178に対して割当数は15に過ぎなかった。



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明治2年 [1869] 版籍奉還、酒田県を置く
明治7年[1874]ワッパー挨、日本農民騒動史上最長期といわれ全国的に著名
明治17年[1884]酒田港改築始まる。酒田米商会所(のち酒田米穀取引所)創設
明治22年[1889]7月、酒田に町制が敷かれ、本町四丁目に町役場を設置
明治26年[1893](株)酒田米穀取引所付属倉庫「山居倉庫」を設置
明治27年[1894]10月22日、庄内大地震
明治28年[1895]10月、木造洋式灯台(旧酒田灯台)を宮野浦に設置
明治30年[1897]4月、酒田商業会議所創立
大正3年[1914]12月、陸羽横断道酒田線が開通、酒田駅落成
大正15年[1926]3月、国立倉庫竣工

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