1.江戸時代
   酒田は、山形県の北西部に位置し、日本三大急流のひとつである最上川が日本海に注ぐ河口に発達した街である。
 古くから、出羽国の中心として栄え、9世紀には出羽国府も置かれた地である。
 江戸時代に入り、日本海沿岸や内陸河川交通の要地として多くの豪商が軒を並べ、なかでも「鐙屋」は、元禄年間、井原西鶴の「日本永代蔵」に北国一の米問屋と記されたほどである。
 寛文12年(1672年)には、河村瑞賢が西回り航路を開拓し、北前船が、日本海側の北海道、北陸、山陰、下関、瀬戸内海を経て大坂、江戸と往来し、米や紅花、藍、海産物などを運んだ。
 江戸中期の回船問屋は97軒を数え、その蔵には当時の金で200万両分の物資が詰まっていたと言われ、酒田港の黄金時代であった。
 江戸時代後期明和年間(1760年代)における酒田の産業は、戸数3,800軒、酒屋20軒、染屋18軒、鍛冶屋58軒、ローソク屋17軒、油屋33軒、研ぎ師2軒、桶屋42軒、大工122軒、木挽き26軒、川舟(2〜5人乗り)218艘、川舟(1人乗り)255艘、漁舟39艘とあり、その代表的なものは刃物、木工品、酒などで特に蝦夷地(現在の北海道)において使用された打刃物のほとんどが、酒田産であったことが林子平の書いた「三国通覧図説」などにより知られている。
2.明治・大正時代
 北前船の船頭達が競って造らせた船ダンスに代表される家具の生産は、明治に入り技術と生産量が向上し、明治末期には最盛期を迎え、県内最大の生産高を誇るまでに成長した。
 しかし、個人的職人芸による生産のため企業化には成功しなかった。
3.大浜臨海工業地帯の開発
 酒田港は、昭和に入ると最上川と港との河海分離工事が実施され、近代港として生まれ変わった。
 埋め立て造成工事により、大浜地区に、鉄興社(現在の東北東ソー化学、日重酒田工業の前身)、花王石鹸、日新電化、東京タングステン、東北電機鉄工などが続々と立地し、合金鉄、か性ソーダ、塩酸、晒粉、石鹸、ワックス、硬化油、マグネシウムなどが生産され、東北屈指の臨海工業地帯としてその繁栄を誇った。
 戦後もその態勢は変わらず、大浜工業地帯の立地が限界に達するや新しく北港の開発へと進むことになる。
 しかし、昭和48年の第一次石油ショックは、大浜地区の工場に強いショックを与え厳しい時代を迎えたが、経営の再編、新分野への進出などの企業努力が行われ、本市産業の大きな柱として現在に至っている。
4.酒田港北港地区の開発
 昭和26年には国の重要港湾にも指定された酒田港であるが、元来河口に開かれた港であるため港湾の拡張には限界があり、入港船舶の大型化や取扱い貨物量の増大に対応しきれなくなった。こうした状況を受け、新たな物流拠点の創造と地域活性化を目指し、古くから栄えた本港地区の北側に新たな港を開発しようという酒田港拡張計画が、昭和41年の港湾審議会で決定された。
 昭和49年に第1船が入港した北港地区は、5万トン岸壁2バースを備え、現在は韓国釜山港からのコンテナ船やロシアからの木材船などが入港し、国際港としての賑わいをみせる。平成12年7月には酒田港国際ターミナルが供用開始され、港湾機能の強化と、物流サービスの向上に大きく寄与し、ユーザーの利便性を増進している。また、平成13年8月には、東北横断自動車道酒田線(山形自動車道)が「酒田みなとインター」まで延伸、全線開通した。酒田港と太平洋側の仙台圏が直結することで、背後圏が拡大し、港勢の一層の伸長が期待される。
 また、平成15年4月には、国土交通省より総合静脈物流拠点港(リサイクルポート)に指定され、全国21ヶ所の静脈物流ネットワーク拠点に位置づけられている。この指定を踏まえて、より一層酒田北港地区へのリサイクル系企業、新エネルギー系企業の集積に力を入れている。
5.工 業
 食料品として特徴的なものに酒がある。本格的な製造は明治に入ってからであり、大正末期には、最大の産業に成長し、現在も県内トップクラスの出荷量を誇っている。また、食肉加工も大きな位置を占めている。
 酒田の縫製業は、戦前戦後は港の作業衣としてのカッパといわれるゴム引き布の加工が特徴であった。
 明治時代に内陸地方から最上川をいかだで運ばれた原木の製材に変わったものの酒田港取扱貨物の中心となっている。
 また、明治・大正時代に職人の名人芸により支えられ、酒田の産業の中心であった家具製造は、戦後、名人芸の保持、商店化、工場化と三分化し現在に至っている。
 化学、鉄鋼は、大浜臨海工業地帯とともに発達してきた酒田を代表する業種であり、その歴史は酒田市の近代産業史ともいえるものである。
 金属、機械は、大浜臨海工業地帯を支えてきた製罐、板金の高い技術力、美田を誇る庄内平野を支えてきた農業機械にその特徴を見ることができるが、重要な男子型産業としての一面をも持っている。
 臨海型の素材産業中心の酒田であったが、昭和50年代に入ると時代は大きく転換し、付加価値の高い電子産業が注目され、タナシン電機、酒田TDK、東北エプソンなどが立地し、現在の酒田市産業の中心として従業員数も最大の業種となっている。
 平成15年に酒田港がリサイクルポートに指定されたことにより、臨海部への資源循環型社会に対応した企業の集積を図るとともに、新たな工業団地の整備を進め、立地企業への支援の充実などによる積極的な企業誘致を推進している。
6.商 業
 酒田は、江戸時代には米や紅花の積出し港として隆盛を極め、商業の町として発展してきた。
 昭和40年代の郊外化の進展、スーパーマーケットによる第一次流通革命の波に対応して、昭和50年には駅前地区の市街地再開発事業を完成して、駅を中心とした商業集積の高度化を図った。
 また、昭和51年の酒田大火により、中町商店街が全焼するという大きな災害に遭遇したが、商店街近代化事業と市街地再開発事業に取り組み、わずか3年の短期間のうちに新生中町商店街をよみがえらせた。
 一方、モータリゼーションの進展にともない、国道7号バイパス沿いへの量販店などの進出増加、新興住宅街における商店街の形成といったように、多極化の様相を呈しており、それぞれ特色をそなえた商業集積となっている。
 近年は、近隣町への大型店の進出により、市内の小売業に大きな影響を及ぼしている。これまでは、中心商店街の空洞化が指摘されてきましたが、もはや中心商店街だけの問題ではなく、酒田市の商業全体、酒田のまちづくりにも影響を及ぼすことが懸念されます。