酒田市勢要覧「出羽の京(みやこ)、酒田」より

  芭蕉の時代から
変わらない
酒田の自然の雄大さ
古い和歌に詠み込まれた名所を巡る
『おくのほそ道』紀行で、芭蕉が酒田を訪れたのは、
元禄2年の夏のことでした。

B 本間光丘 1733年〜1801年
ほんま・みつおか
日本一の大地主として名を高めた本間家三代当主。本間庄五郎の名で商業を営み、本間四郎三郎光丘の名で藩に仕えた。西浜海岸への植林事業や飢饉の備忘籾貯蓄事業、庄内藩の財政再建など、数々の偉業で知られる。


 「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と謳われた酒田の豪商、本間家。その三代当主光丘は本間家中興の祖として知られ、多くの公共事業を通して酒田のまちの発展に尽くしました。

 光丘が果たした偉業の一つが、西浜への防砂林の植林です。多くの財産を投じて市民らと力を合わせて行った植林事業は、飛砂の害から人々の暮らしを守っただけではなく、海沿いに白砂青松の美観をもたらしました。このほかに、財政が切迫していた東北諸藩への資金援助や財政再建、藩内の飢饉に備えて備荒籾を献上、更に、藩士や農民へ低利の資金融資を行い、窮民の救済にも努めました。光丘は、さまざまな事業を通して優れた経営手腕を発揮し、やがて「日本一の大地主」と称されるほどの莫大な財力を築いたのです。

 四代目を継いだ光道は、冬期失業対策事業として別荘「清遠閣」とその庭園「鶴舞園」を築造。清遠閣は、庄内藩主酒井侯が領内巡視をする際の休憩所として使用されました。その後、戦前には迎賓館として貴賓らを迎え、戦後には全国初の私設美術館「本間美術館」として市民に開放。戦後の人心を癒やし、人々が一流の芸術文化にふれる機会を創出してきました。

 そして百数十年の後。先代らの遺志を継いだ八代光弥は「荘内育英会」を創設。「光丘文庫」を設立し、伝来の蔵書を寄贈しました。

 世のため人のためと、本間家に代々伝えられてきた「公益の精神」は、こうして酒田の随所にその面影を残し、「公共の念に厚い」光丘の信条は、本間家の名のもとにこの地に脈々と受け継がれています。