酒田市勢要覧「出羽の京(みやこ)、酒田」より

  酒田湊から世界へ
新航路へと続く
確かな地盤と地域の絆
西廻り航路がもたらしたものは人・もの・文化。
そして、明日を拓く道しるべ。海を渡り、
空を飛び、陸路を走り、運ばれるのは夢と未来。

A 河村瑞賢 1617年(または1618年)〜1699年
かわむら・ずいけん
江戸時代前期に活躍した幕府の御用商人。貧農の子であったが、江戸に出て人夫頭・材木屋で資産を増やした後、土木家として幕府の公共事業に関わる。人口急増により米の需要が増した江戸に向け、年貢米を安全に届けるための航路を開いた。


 商人で賑わう湊町として栄えてきた酒田。江戸時代に入る頃には、東北随一の商業都市へと成長を遂げました。酒田の更なる隆盛への道は、河村瑞賢が整備した「西廻り航路」によって大きく切り拓かれました。

 江戸の人口増加により米の需要が増した当時、幕府は出羽国の城米(年貢米)を江戸に送るように瑞賢に命じました。瑞賢は港湾の利便調査をもとに、酒田から下関を回り、瀬戸内海から大坂(現在の大阪)を経由して、江戸へ城米を直送できるようにしました。酒田には幕府専用の米蔵「瑞賢倉」が設置され、最上川を通じて各地から米が集められ、湊から江戸へと送られました。

 米の集積地と積出港となった酒田湊は、天下の台所・大坂と直結し、上方船の出入りが急増。天和三(1683)年には、川船も含め約三千隻の船が入港したと伝えられています。酒田を出港した北前船は、上方から塩、木綿類や茶、北方から海産物や材木など、全国各地の商品を積んで帰港。これらと一緒に運ばれてきた雛人形は、今も旧家で大切に受け継がれ、酒田の春の風物詩となっています。

 北前船の往来によって全国とつながった酒田は、華やかで自由闊達な湊町文化が形成されました。茶道や俳諧、生花が教養の一つとして盛んになり、茶屋文化、料亭文化と共に風流を競いました。商業活動もますます活発になり、「鐙屋」をはじめとする豪商が次々と出現。人口も急増し、賑やかさを増した酒田は、きらびやかな時代の薫りに包まれました。

 酒田湊に空前の繁栄をもたらした河村瑞賢。日和山公園に立つ彼の像は、港の安全を見守りながら、未来が広がる海の彼方へと眼差しを注いでいます。