酒田の発祥伝説として「徳尼公(とくにこう)伝説」がある。徳尼公とは、奥州藤原秀衡(ひでひら)の妹・徳の前、あるいは後室・泉の方ともいわれ、文治5年(1189)に源頼朝によって藤原氏が滅ぼされた時、遺臣36騎と共に立谷沢に落ちのび、飯森山の麓に泉流庵を結んだ。そして、徳尼公没後、遺臣は地侍となって酒田湊を開き、その子孫が今に伝わる「酒田三十六人衆」になったと伝えられている。
この三十六人衆は、日本における自由都市発祥の地といわれた堺の、商人による自治組織・会合衆(えごうしゅう)を倣ったものとも伝えられる。伝説は伝説としても、古くから「諸国往還の津」と称された酒田湊には、当然のように商品流通が、そして人の交流が盛んになる条件が整っていた。
三十六人衆としては、鐙屋(あぶみや)をはじめ二木家や本間家、西野家、後藤家、根上家、上林(かんばやし)家などが知られるが、このうち鐙屋は、井原西鶴の『日本永代蔵』に「北の国一番の米の買入、惣左衛門という名をしらざるはなし」と紹介される豪商であった。これは寛文12年(1672)に、河村瑞賢(ずいけん)によって西廻り航路が整備されたことが背景にあり、江戸時代中期の回船問屋は本町通りを中心に97軒、蔵には200万両分の物資が詰まっていたという。
回船問屋のほかには、紬綿屋・呉服太物商・古手商など、衣料品を取り扱う店が多かった。その中で、伝馬町にあった白崎五右衛門の越前屋呉服店、分家の菱五越前屋が特に大きかった。また商人見習の修業の場でもあった。明治27年(1894)の庄内大地震後、両家は衰退していくが、酒田における衣料店はその伝統を引き継いでいく。
そのほか、激しい時代の流れの中でも伝統を守り続けている家としては、寿町の久村酒店が少なくとも慶応3年(1867)以前から続いている老舗(しにせ)であり、鍛冶町で鍛冶職を続けている池田多四郎家、中町で海産物を商う越島三郎治商店、500年前に滋賀県から来て本町で薬屋を開き、現在、中町三丁目にある伊庭屋(いばや)薬局の川島家、同じく三丁目の萬谷商店も江戸期からの瀬戸物店で、小松屋は天保12年(1841)に鍛冶職・小松治郎兵衛家から今町に分家して以来の菓子屋である。
以上は一端ではあるが、三十六人衆36家のうち、明治元年まで続いた家系は10家のみであり、残り26の家株をめぐって91家がその間に入れ替わったというほど、港町の生存競争は激しく、栄枯盛衰をたどってきたのも事実である。ただし、前述した越前屋や菱五の白崎一族が越前から、伊庭屋が近江から、ほかに本町の村田商店が伊勢からだったように、他国の商人を受け入れた開放的な港町であった側面も見落としてはならない。
越前屋以外にも越中屋・越後屋・近江屋・美濃屋・加賀屋・最上屋・本庄屋・三河屋・寺津屋・和泉屋・中国屋・伊達屋・赤穂屋・能登屋・柴田屋・高山屋・播磨屋・伊勢屋など、出身地の屋号を持つ商店が直接、あるいは一旦出店を開き、その後店を張るなどした例が多かったのは、その進取の風土を語っており、伝統の系譜は今なお脈打っている。
酒田商人の精神をよく表わした逸話がある。元和8年(1622)9月、山形・最上氏がお家騒動で移封になり、徳川家の重臣・酒井忠勝が入部して来た折のことで、忠勝は酒田商人の代表である三十六人衆に、酒井家御家人として召し抱える旨を伝えた。しかし彼らは即座に「二君不仕(つかえず)なとゝ申上、壱合(いちごう)も受不申(うけもうさず)候、然共(しかれども)くらし方沢山成ほと地所かぶ(株)田地持候間気強く、上の御世話にならすと申候」と答えたという(『夢宅年代記』)。要するに、暮らしに困らぬほど地所・商業株・田地を持っているので、1合の扶持(ふち)さえいらない、お上のお世話にはならないと拒否したのだった。いかに商人の力が強大になってきたとはいえ、未だ重農賤商の時代、これほどの自負を持つことができた背景には何があるのだろうか。
経済の原語は「経世済民」であり、「乱れた世の中を整え、苦しんでいる民を救う」という意味があるにもかかわらず、経済の原動力たる金銭(商業活動)については、なぜかネガティブな印象がつきまとう。これは多分に儒学、それも朱子学の影響によるもので、「士農工商」と封建的身分制で最下位に位置づけられたのも、「本骨折らずして坐て利を儲る者」(荻生徂徠[おぎゅうそらい]著『政談』)という「賤貨排商論」の見方による。
そういった偏見の中で、江戸中期の思想家・石田梅岩は、銭を重ねて富をなすは商人の道であること、ごまかしのない商売は善であるとし、商人に勤勉努力の大切さを説いた。越後屋の『店員心得書』にも、「富貴は天のあたふる処に非ず、勤行の後天のあたへあるべし」とあるのは、その影響であろうか。いずれ梅岩の教えは「心学」として全国に広がり、安政2年(1855)鶴岡に設立された心学講舎「鶴鳴舎」がおこなった心学講習は、白崎五右衛門、山田太右衛門、尾関又兵衛など、酒田の多くの商人に受け入れられ、心学は酒田商人の心の支えとなった。
だが、驚くべきことは、前述した逸話が元和8年という事実である。未だ心学が広まる以前のことであり、時の統治者に向けた旺(さか)んな衿持は、三十六人衆によって地方自治が成立していたことによる。それは、他の自由都市が、近世大名の城下町に再編され解体していく中で、流れに逆行して例外的に生き残るほど確固たるものであった。
そこに、「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と唄われた本間家のように、経済力を見ることも可能だろう。事実、本間家は、15万石の庄内藩程度のものであれば10や20は経営できる実力を備えていたといわれており、酒田商人の存在は、日本の経済そのものを動かしていたといっても過言ではなかった。しかし、そればかりではない。そこには含蓄ある確かな商人道としての哲学があった。
それは、地道な長期計画の中で「徳を施し得をえる」商法の実践だった。今日の酒田を支える庄内浜の砂防林建設がその一例で、季節労働者に対する失業対策事業の側面も兼ねた、まさに経世済民を地でいくようなものであった。企業の追求する私的利益と、市民社会の公的利益の同心円化を求められる昨今、酒田商人には既にその明確な哲学があったといえる。