充実期
昭和21年〜昭和50年

酒田市略年表
発展期(昭和51年〜平成9年)へ


近代港湾への脱皮をめざして、酒田港湾維持連盟を結成。

 昭和20年(1945)、敗戦によって大きな打撃を受けた日本経済は、以後、政治、教育等の民主改革と歩調を合わせ復興の段階へと進む。しかし、復興とはいえ戦争の被害は余りにも大きく、むしろ復旧作業からスタートしたといっても過言ではない。酒田でも、戦争の後遺症は大きく、食糧難に始まり、引揚者に対する住宅対策、失業対策、そして水道・病院事業といった具合に市民生活上、必要不可欠なライフラインの条件整備に取り組まざるをえなかった。

 経済面でのテコ入れも徐々に進められ、21年には早々に「酒田港湾維持連盟」が結成された。そして近代港湾に向けて中央への陳情が繰り返しおこなわれていく。そのため政府も酒田港の重要性を次第に認識し、23年には開港場に指定、日本を代表する国際港として名乗りを上げた。

 その後、26年には港湾法に基づき重要港湾に指定されることになった。これにより港は活気づき、貨物取扱量も27年には17万トン台、29年には21万トン台と戦前の水準に大幅に近づき、30年(1955)にはとうとう追い越し、以後ますますの発展を遂げていくことになる。

 この貨物量が大幅に増大した背景には、32年の木材輸入港としての指定があり、33年には木材を積んだソ連船第1号の入港があった。さらに同年には酒田港に念願の1万トン岸壁を起工(37年竣工)、翌34年には英国船ミプレ号(1万トン)が入港、まさに飛躍しつつあった酒田港を象徴した。

中町と浜町のネオンアーチは、市民全体の心意気の象徴に。

 戦時下の商工業は軍部の統制下にあったが、敗戦と共に経済の民主改革路線が敷かれることになった。しかし、商工業者が個々に自由な経済活動をおこなうとはいっても、先行きに対する景気不安や、資金的、経営上の手腕などの問題があった。したがって、こうした商工業者の指導的立場に立ち、商工業の民主的改善と発展を導き、日本経済の飛躍を図ることを新たな目的として、昭和21年(1946)12月、社団法人日本商工会議所が発足した。こうした動きと歩調を合わせるかのように、戦時中から山形県商工経済会酒田事務所として統制されていた酒田商工会議所も、社団法人酒田商工会議所として同年9月に新しく発足し、会頭には荒木誠一が就任、しかし同年12月には公職追放問題で責任を取って辞任し、後任に村田与治兵衛が選出された。

 22年には『商工さかた』を商工会議所報第1号として発刊、会議所の調査、諸事業の概要を報じた。さらに25年には酒田市中小企業相談所を開設、「安定恐慌」対策として中小企業者の悩み、苦情を受けては、その発展のための指導に当たった。この経済団体の発足とその活動は、自ずと商工業者の信頼を得ることによって個々の経済活動への活力として芽生え、またそれは25年以降の景気の好転とも重なり、新企業設立の礎(いしずえ)ともなっていくのである。

 『酒田市史改訂版・下巻』によれば、酒田市に本社を持つ企業だけでも昭和20年末には107社であったものが28年には127社に増加したと記されている。

 こうした新しい企業の設立は経済的に設備投資を増大させ、景気をテコ入れするばかりでなく消費需要をも誘発させ、昭和30年代に入れと中町を中心とした商業の発展段階を迎える。その背景には、投資需要もさることながら、農家所得の増大が最も大きな要因としてあげられる。それが第三次産業の充実・発展へと連鎖していったのである。

 この過渡的発展段階を象徴するかのように26年8月、中町にネオンアーチが完成、1基100万円のネオン3基が点灯し、3日間に及ぶ中町ネオンまつりが盛大におこなわれている。また33年には浜町にネオンアーチが設置され、これを祝して街灯竣工祝賀会がおこなわれた。こうしたネオンの点灯は単に夜の商店街を照らし、客集めを目的としたものではない。そこには戦後における人々の苦悩と努力があったのであり、今後も民主的な経済活動を通じてますますの発展を遂げていくという、市民全体の心意気を輝くネオンの明りに象徴していたに違いない。

農地解放と市町村合併により、10万都市・酒田への道を拓く。

 こうした酒田の発展段階の中で、忘れてはならない重要な事柄がある。一つは農地解放である。これは戦後の農民に、農業に対する新しい考え方と、将来に対する活力を与えた。もう一つは市町村合併である。

 終戦後まもなく、連合軍最高司令部は民主改革を実施する上で、封建的束縛(そくばく)を取り除き、自由な経済活動を奨励するため、「農地改革に関する覚書」を発し、至急に改革を実施する旨を日本政府に命じた。これにより所轄(しょかつ)である農林省は草案を作成、その後修正も加わり昭和21年(1946)10月21日に国会を通過、同年11月から施行されることになった(「改正農地調整法」…法律第42号、「自作農創設特別措置法」…法律第43号)。

 本間家によって強力な地主制が敷かれていたこの酒田での同法律の適用は、地域民にとって以後の時代を見据えるための、大きな転換期であったといえる。酒田・飽海地域における不在地主の所有地はほぼ消滅、また地主制の廃止は地主、小作の階層分化をも消滅させ、自作農民としての独立を可能ならしめることによって農業への意欲をかりたてていった。

 合併についてだが、酒田市は戦前より大都市酒田を目標として近村との合併が計画されていた。戦後に至っては、24年、飛島村が生活の向上と産業の振興を目的として酒田市に合併を申し入れていた。そして翌25年には209戸、人口1,621人が新しい酒田市民として迎え入れられている。

 同24年には地方財政改革、即ちシャウプ勧告が出され、地方自治の確立、強化を図るため財政状況の比較的悪い近隣市町村の合併を奨励したのである。しかし、袖浦村、宮野浦等は酒田市との合併の気運こそ生じたものの具体的な進展はみられなかった。

 こうした事態は全国的な傾向でもあったため、政府は28年9月「町村合併促進法」を公布、町村規模の適正化と効率化を唱え、合併の促進を図っていく。これを受けて県では同年「山形県町村合併促進審議会」を発足、また酒田市も市制20周年の転機ということもあり、近隣町村との合併に関する話し合いを進め、さらには「近隣合併委員会」を設けるなどしてその推進を図っていった。

 29年8月、西荒瀬地区が先陣を切って酒田市と合併、その後9月には新堀・広野・袖浦・東平田・北平田・中平田・上田・本楯、そして南遊佐の9カ村が、合併に合意することとなった。これを受けた酒田市議会は同年9月28日議会を開催、合併を決議、施行を同年12月1日とした。

昭和32年の中町商店街初売り風景
昭和32年の中町商店街初売り風景

 しかし、10の市町村が合併を果たしたとはいえ、その気運はそこに止まるだけではなかった。合併気運が助長し、全国でもまれにみる分市紛争へと発展してしまった。いわゆる湯野浜合併問題がこれである。

 詳細な経緯は省くが、33年4月20日、湯野浜地区の鶴岡市からの分市をめぐる住民投票が、鶴岡市選挙管理委員会のもと、多数の警察官の厳戒の中で実施された。結果は反対票が705票、賛成票が1,276票であったが、有効投票数1,989票の3分の2に賛成票が達しなかったため分市はならなかった。酒田市はこれにより敗北を喫したことになったが、民主主義の根本的原則に立ち返り、10万都市・酒田を築き上げていく上で大きな教訓として受けとめ、以後の市勢発展に取り組んでいくことを決意したのである。

 ところで、昭和29年の市町村合併以後、酒田市は先の湯野浜問題で失敗したとはいえ、その人口規模は昭和30年代、9万5,000人強を保持し、県下第2位の都市を誇っていた。しかし、合併による人口の増大は酒田の産業別人口1にも大きな影響を与えた。

 一時的に農家人口が急激に増えたものの、35年、40年と逓減(ていげん)を続けていくのは、日本の高度経済成長による重化学工業の台頭と、それに伴う都市への人口流出によるものである。そして、第二次・第三次産業を中心とした就業人口の増大は、酒田の市街地人口の増加につながり、住宅対策を主とした新しい都市計画が必要になっていく。

北港開発と住軽アルミの誘致で、新日本海時代の起爆剤に。

 過疎ということが、政府の公式文書(「経済審議会地域部会中間報告」)で問題になったのは、前田巖が第12代酒田商工会議所会議所会頭となった昭和41年(1966)である。同年、日本経済は戦後最悪といわれた「40年不況」から一転して、戦後最長の景気となった「いざなぎ景気」に突入した。公式文書は、日本の地域問題として、過疎問題のほか、地域格差問題、過密問題の三つを指摘していた。

 もっとも、政府がこれらの問題を放置してきたわけではない。「全国総合開発計画」(昭和37年)は、昭和30年代の高度経済成長の中で、太平洋ベルト地帯の過密化が進み、また一方で、地方の過疎問題が深化することへの対応策を用意した。具体的な手法として、「新産業都市」及び「工業整備地域」の建設構想である。自治体は、新産業都市建設の指定を受けようと、史上空前といわれる誘致合戦を展開した。酒田市も「庄内地域新産業都市建設構想」を打ち出し、新産業都市に名乗りを上げたが、指定にもれた。

 しかし幸いにも、41年の国の港湾整備計画の中に、「北港開発(酒田臨海地域開発)計画」が盛り込まれた。その骨子は、酒田本港北方の宮海付近に港湾規模5万トンの北港を造る。背域工業用地1,100へクタールに住友軽金属の子会社・住軽アルミの工場を誘致する、というものである。

 46年10月、山形県と住友軽金属工業との間で立地協定が締結されるに至った。48年には設立が決定。49年11月には工場建設が着手された。そのような中で酒田北港に第1船が入港、開港記念式典がおこなわれた。こうして北港開発により、県内唯一の臨海工業地帯として、また新日本海時代の拠点産業都市として大きく飛躍することが期待された。

昭和50年頃の柳小路マーケット
昭和50年頃の柳小路マーケット




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昭和26年 [1951] 1月、酒田港が重要港湾に指定される
昭和27年[1952]7月、酒田港が入国管理令による指定港となる
昭和29年[1954]町村合併促進法により近隣10カ村を合併、人口9万3,719人
昭和37年[1962]5月、酒田市民会館完成
11月、酒田港1万トン岸壁竣工
昭和38年[1963]7月、鳥海山・飛島が国定公園指定
昭和39年[1964]6月16日、新潟地震発生(震度5)
9月、新市庁舎完成
昭和44年[1969]9月、市立新酒田病院完成
昭和45年[1970]8月、酒田北港起工
10月、公共下水道工事起工
昭和47年[1972]5月、市営体育館完成
6月、出羽大橋完成(817m、東北最長)
8月、酒田バイパス全線開通
10月、羽越線全線電化
昭和49年[1974]3月1日、鳥海山153年ぶり噴気活動
4月、川南住宅団地完成
市制40周年記念に酒田市名誉市民制定、第1号に土門拳氏
11月、酒田北港開港
昭和50年[1975]7月、飛島総合センター完成

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