発展期
昭和51年〜平成9年

酒田市略年表
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 昭和51年(1976)10月29日。市民にとって忘れることのできない、あのいまわしい大火が発生した。その日、風は夕刻から次第に強さを増していった。午後5時50分、出火の通報が消防本部に入ったが、出火は中町二丁目映画館グリーンハウスからであった。鎮火したのは、翌30日の午前5時。出火以来11時間半にも及ぶものであった。市の中心部1,774 棟が焼損した。被害は、死者1人、罹災(りさい)者3,300人、被害総額405億円(うち276億円が商工関係の被害)。わが国で、戦後4番目の大火となったのである。

 大火前の酒田市の商店街は、50年に駅前再開発事業が完成し、ジャスコを核店舗とした駅前地区と、中心商店街である中町商店街に二分されていた。こうした環境の変化に対応しようと準備を始めた矢先、大火が中心商店街を襲った。酒田の商工業者は、デパート1店舗を含む444店を焼失、中心商業地の大半を失った。商工業者の苦渋の歴史は、この日から始まったといってよいであろう。

 大火後の復興は、例のない速さで進められた。まず、市民の先頭に立ったのは「走りながら考える」方針で臨んだ行政であった。大火から3日後の11月1日夜、酒田市は「防災都市づくり」を最大の主眼に置くことを決意、その「復興計画原案」をまとめあげた。幅32メートル道路やショッピングモール(歩行者専用の買物公園)は、この計画の中から生まれた。

 一方、酒田商工会議所は、鎮火直後の30日、前田巖会頭を本部長とする「災害対策本部」を商工会議所に設置した。そして11月5日は、罹災地区商店街代表で今後の復興に対応する組織を作るため、罹災8商店街、新井田地区の各代表32人を以て「酒田商業地区建設委員会」が発足した。

 市や商工会議所は、当初から商店街の復興が酒田市復興のカギであると考えていた。中町の商店街の復興を目的に、復興対策事務所を開設し(商工会議所から3人出向)、復興のための相談と指導に当たることにした。まず復興資金の導入には「高度化資金」(中小企業高度化資金助成制度)が活用され、同資金が復興の立役者となった。

 53年10月には、延面積2万平方メートル、33億円を投じて、清水屋を含む共同店舗「酒田セントラルビル」 (マリーン5)が市街地再開発事業を導入してオープンした。7,000 万円を投じたというショッピングモール。従来の「がんぎ型アーケード」を一新した「セットバック方式」のアーケードである。「復興2周年には全店オープン」を合言葉に、中町再開発は進められてきた。そして、それは若干のズレはあったものの、行政のコーディネーションと商店街のインセンティブにより予定通り実現したのである。

昭和51年の酒田大火翌朝の惨状

 平成8年(1996)10月29日で酒田大火から20年がたった。その間、被災した中心商店街には、モール問題、大型店問題、中町商店街の地盤沈下と商店街の多極分化など多くの課題が残された。「大火復興事業」の節目の時期を迎えた今、その評価はさまざまである。しかし、これだけは言える。2年半という異例のスピードで復興を成し遂げた背景には、市民も、行政も、商工業者も、そして商工会議所もみんなが知恵を出し合い、努力し、助け合いながら歩んできた道があったことを。

 大火から年が明けて、昭和52年(1977)1月17日。酒田北港にある住軽アルミニウム工業(株)が期待されつつ操業を開始した。しかし、現実は市民の目に見えないところで、確実に厳しさを増していた。住軽アルミが設立された48年に第1次石油危機が発生し、さらに操業を始めた翌年には、第2次石油危機に遭い、電力コストが急上昇。アルミ業界は構造不況に陥ったのである。

 「操業を休止する」−−−57年4月18日、新聞各紙は「住軽アルミ酒田工場操業全面休止」のニュースを報じた。ショックは続いた。「住軽アルミは解散」・・・・・同社が20日、山形県、酒田市、同社労組に明らかにした方針は、「休止」から一転して「解散」というものであった。事実上の全面撤退といラ 最悪の事態となる。かくて、10年余りの歳月と600億円の公共投資がおこなわれた北港開発は、大きな見直しを迫られることになった。

 市役所では、「北港地域対策会議」がさっそく発足し、「特定不況地域中小企業対策臨時措置法」、俗にいう「企業城下町法」の適用申請の検討に入った。特定不況地域の指定を受けると、対象中小企業に、緊急融資、税還付、雇用調整助成金などの救済援護措置が講じられる。結局、57年10月15日、酒田市は特定不況地域に追加指定されることが決定された。同時に、新たな企業誘致も進められた。

 (株)本間ゴルフ製作所が、酒田市に進出してきたのは、酒田が特定不況地域に指定されたそんな時だった。当時、めぼしい企業立地がなかった北港背後地の久々の誘致に、しかも、酒田にゆかりの深い優良企業ということで、市民の喜びと期待は高まった。従業員も120人、240人、600人と増え続け、わずか4、5年で900人規模まで拡大した。

 ところで、日本経済は2度のオイルショックによって低成長を余儀なくされたが、同時に産業構造も転換期を迎えた。即ち、原油高は、それまで花形的存在だったアルミ精錬や石油化学、鉄鋼など「重厚長大型の素材産業」=エネルギー多消費型産業から、エネルギーを多く使わないマイクロエレクトロニクス(ME)分野を浮上させたのである。通産省や国土庁も「テクノポリス構想」(高度技術集積都市)を策定し、ハイテク企業の地方への誘致と、地域の技術開発の拠点づくりに積極的に乗り出していた。そして、この頃からハイテク関連企業の相次ぐ進出がみられる。主な企業は、次の各社である。

 まず、磁気記録メディアの総合メーカーであるTDK(株)は、56年9月、東町にトランスの製造を目的に「酒田コンポーネント(株)」(現・酒田TDK)を設立した。

 スワセイコー・エプソングループは、酒田市十里塚に敷地約44ヘクタールの用地を取得し、新会杜「庄内電子工業(株)」(杜長・小田切秀穂)を設立、昭和61年には工事に着手し、翌年10月から本格的に操業を開始した。

 平成元年(1989)1月、庄内電子工業は、生産の拡大と事業の多角化を期して、「東北エプソン(株)」と改称し、翌2年10月には、最先端の超LSI生産工場を完成させた。67人でスタートした同杜も、4年には従業員1,000 人を擁するまで成長している。今後、東北エプソンは、ハイテク分野の研究開発拠点としてはもちろん、酒田にとってもなくてはならない存在になっていくことだろう。

 庄内空港の必要性は、まさに、交通過疎化からの脱却にあった。そこで、昭和45年(1970)には、庄内地域の活性化と称し、庄内開発協議会が庄内空港の開港を打ち出していたが、現実にはほど遠かった。

 56年1月、庄内空港建設促進期成同盟会(会長・前田巖酒田商工会議所会頭)が発足、テレビ・新聞・ポスター等により、地域住民の啓発をおこない、運輸省はもとより、各関係方面へ積極的に働きかけ、要請・陳情を繰り返していく。さらに、署名と街頭での募金も実施、当初目標は署名10万人、募金500万円であったが、実際には23万人と900万円にもなり、住民の熱意は非常に強かった。こうした努力は、62年(1987)8月、運輸省による第3種空港建設の認可として実り、以後、本格的な実施設計・測量・用地買収等、早期の開港に向けて取り組むことになった。

 こうした期待を乗せて、庄内空港は平成3年(1991)10月1日、庄内−東京1往復、庄内−大阪1往復便の就航を以て開港、そして、4年11月には、東京便が1往復増便、さらに7年には札幌便が就航するようになり、8年4月末現在、利用客は約200万人を記録している。9年7月からは東京便が3便に増便した。また、フライト農業としての新しい市場開拓を可能とし、その躍進が期待されている。

 次に、東方水上シルクロード開設の経緯だが、酒田市の(株)平田牧場社長・新田嘉一(現・酒田商工会議所会頭)は、日中国交回復以前から中国の黒竜江省に出向き、中国豚の原種の視察・研修を重ねていた。こうした前向きの新田社長に好意を持った中国黒竜江省政府は、合弁事業を提案した。即ち、同省畜牧局と同社の合弁により、未耕地を開拓し、日本の高度な技術を導入して生産量を増やし、外貨の獲得を図ることを同省は考えたのであった。

 しかし、こうした中国側の提案・要請を受け入れ、実現するためには解決すべき問題が山積していたのも事実であり、何よりも、国境にはばまれた黒竜江省からの輸送ルートに頭を悩ました。

 新田社長は合弁事業としての現地を視察する際、中国軍用へリに乗り込みヂャムス・七台河に向かうその時、眼下にしたものは中国の広大な土地とその中をとうとうと流れる大河松花江であった。そしてこの大河がアムール川に連なっていることを知った時、松花江のヂャムスから黒竜江、アムール川を下り間宮(まみや)海峡、日本海、そして酒田港という全長2,850キロメートルの輸送ルートを思いついた。

東方水上シルクロード第一船
東方水上シルクロード第一船

 やがて、双方の努力と信頼が築き上げられていく中、折からの東西の冷戦構造の崩壊がチャンスとなり平成4年1月、ロシアからアムール川の領土内通行を許可され、同年5月には、年間6,000トンの飼料用トウモロコシ輸入の締結を交わし、早速、中国チャーター船の運航が決定した。同年8月4日、飼料用トウモロコシを積んだ第1船が新航路を経由して酒田港に入港、「東方水上シルクロード」の幕開けとなった。その後、懸案であった合弁会社が3杜設立され活動を始めている。

 9年6月には東方水上シルクロード貿易促進協議会(会長・新田嘉一)による常駐の連絡事務所をハルビン市に設置、中継貿易港を増やしたり、さらには東北横断自動車道酒田線(山形自動車道)の開通をにらみ「ランドブリッジ(LB)構想」による背後圏の拡大を図ろうとするなど、貿易の促進を模索している。

 一方、山形県知事・高橋和雄を会長とする「プロスパーポートさかたポートセールス協議会」は、韓国の釜山港を基地として、同国並びに中国との貿易促進に力を入れている。酒田港−釜山港ルートは、7年5月に国際定期航路として開設、以後コンテナを中心に貿易がおこなわれてきた。このように、東方水上シルクロード、さらには釜山航路といった形で、酒田港を玄関とした経済の国際化は着実に軌道に乗りつつあり、環日本海時代を担う重要な航路としての期待がかかっている。

中心市街地の空洞化を解消し、「庄内島」から「開国」の時代へ

 昭和63年(1988)3月、酒田商工会議所は、酒田地域商業近代化委員会による「酒田地域商業近代化地域計画報告書」を発表した。これは、中町を中心とした商業地の衰退をいかにくい止め、どう活力を回復すべきかを、具体的な実施計画を以て提言したものである。

 中町商店街衰退の要因は、結論をいえば大型店が道路事情のよい酒田バイパス沿いに進出したからである。これらの企業は広い駐車場を有し、さらにはディスカウント商法を取り入れるなど、新しい経営戦略を展開した。こうしたお客への誘引効果は、この付近への企業進出、さらには住宅建設へと発展し、みずほ、こがね町といったように新しい市街地をも形成していった。

 しかしながら、こうした企業は、単にバイパスということで進出したのではない。これは高速交通網の将来性、即ち、庄内空港、さらには東北横断自動車道酒田線開通による利便性を考えてのことであり、こうした傾向はより強くなっていくものと考えられる。またこのことは、中心市街地の空洞化現象を引き起こす要因ともなっており、その対応に苦慮しているのが実情である。こうした空洞化に拍車をかけたのが、平成2年(1990)の本間物産の倒産であり、中心市街地への不安とイメージダウンにつながったことも否めない事実である。

 こうした実状を打破するために、酒田市は5年2月、庄内地方が地方拠点都市地域の指定を受け、中心市街地の活性化を目的として、「酒田コアタウン計画」を進めてきた。しかし、大切なことは庄内、そして酒田は、高速交通時代への対応、国際港としての酒田港の活性化や中国黒竜江省ハルビンとの国際定期航空路開設を推進するなど、「庄内島」から「開国」の時代に入っているのであり、それをにらんだ道路整備・住宅地の造成等々、酒田市全体の都市構想を考えていくものでなければならない。

 平成9年(1997)10月30日、いよいよ東北横断自動車道酒田線が開通する。供用開始区間は朝日−酒田間32.4キロで、第11次施行命令区間の朝日村田麦俣−朝日間8.5キロ、酒田−酒田みなと間11.8キロ区間も10年代初めの開通をめざしている。同時に縦の大動脈としての日本海沿岸東北自動車道は、温海−鶴岡間が整備計画区間に格上げされ、早期着工が待たれるなど、庄内の悲願であった交通アクセスの二大プロジェクトが整備される。「開国」の時代はまさに、今始まったばかりなのだ。



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昭和51年 [1976] 6月住民登録人口が初の10万人突破
10月29日、「酒田大火」発生(午後5時40分頃出火、翌30日午前5時鎮火)。
11月、新両羽橋完成
昭和52年 [1977] 10月、毎年10月29日を「酒田市防災の日」と定める
昭和53年 [1978] 10月、再開発事業の商店街が復興オープン
昭和54年 [1979] 5月、大火復興記念式典
10月、公共下水道終末処理場供用開始。ソ連ジェレズノゴルスク・イリムスキー市と姉妹都市を締結調印
昭和55年 [1980] 10月、国勢調査で10万人突破
昭和56年 [1981] 5月、酒田市で初の国際会議、日ソ沿岸市長会議開催
昭和57年 [1982] 4月、総合文化センター開館
昭和58年 [1983] 10月、土門拳記念館開館
昭和60年 [1985] 4月、日和山公園に「文学の散歩道」完成
8月、通産省ニューメディア・コミュニティ構想モデル地域指定の決定
11月、酒田バイパス4車線開通
昭和62年 [1987] 10月、酒田市名誉市民に加藤千恵、酒田市特別名誉市民に前田巌
昭和63年 [1988] 4月、庄内情報プラザオープン
5月、庄内バイオテクノロジー推進センター設立
10月、東北横断自動車道酒田線の朝日村−酒田市間の路線発表
平成元年 [1989] 6月、日本海初の双胴船「ニューとぼしま」就航
平成2年 [1990] 7月、中国唐山市と友好都市の締結調印
11月、郵政省簡易保険総合レクリエーションセンターの設置決定。東北横断自動車道酒田線の酒田市広野−保岡間の12キロに施行命令
平成3年 [1991] 5月、庄内バイオ研修センター竣工式
5月、東方水上シルクロード開設調印
7月、とびしまマリンプラザ竣工式。国体記念体育館完成
10月、庄内空港開港
平成4年 [1992] 8月、酒田港開港500年記念式典。東方水上シルクロード第1船入港。国府の火まつり始まる。
9月、べんばな国体夏季大会(10月に秋季大会)
11月、庄内空港の庄内−東京間が2便に増便
12月、東北横断自動車道酒田線庄内空港インターチェンジ(仮称)の連結許可・施行命令
平成5年 [1993] 2月、庄内が地方拠点都市に指定
4月、市制施行60周年記念式典
5月、酒田の朝市始まる
8月、地方拠点都市の基本計画が県知事の承認を受ける
11月、東方水上シルクロード専用貨物船「木蘭号」入港
平成6年 [1994] 4月、酒田港が家畜伝染病予防法に基づく輸入指定港に指定
8月、酒田北港開港20周年記念式典
10月、出羽遊心館開館
平成7年 [1995] 5月、釜山定期コンテナ航路第1船入港
6月、庄内空港から札幌便就航(-10月31日)
7月、'95世界ホルンフェスティバルinやまがた開催
平成8年 [1996] 1月、酒田簡易保険総合レクリエーションセンターオープン
2月、札幌便が通年運航で再開
4月、酒田市公文書公開制度開始
11月、新エネルギーフェアin酒田開催
平成9年 [1997] 7月、庄内空港、庄内−東京間3便に増便
9月、北東アジア経済交流国際シンポジウム開催
10月、酒田商工会議所創立100周年記念式典挙行。東北横断自動車道酒田線酒田−庄内あさひ間開通


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