湊町さかた観光ガイドテキストブック 「ぐるっと、酒田 まちしるべ」

第一章 商人町界隈
1.「本町通り」 町歩き

向酒田から当酒田へ
 昔、酒田湊は袖の浦にあり、最上川舟運で栄えていました。しかし、度重なる河川の氾濫で河口が一定せず、袖の浦は船着き場として条件が悪くなっていきました。危機を感じた人々は、荷物の集積場所として便利になり始めた、最上川北側への移転を考え始めました。当時、袖の浦(向酒田)は戸数1000余軒、対する最上川北側(当酒田)には150軒程しかなく、町を移動させる事は大決断でした。しかし、日本が戦国時代の真っ只中だった永正元(1504)年頃から、東禅寺城の西側「砂潟」と呼ばれる砂丘地への移動が始まり、100年程かけて町全体が移動しました。この決断を下したのが、徳尼公の遺臣といわれ問丸交易で儲けていた三十六人の地侍達でした。この地侍達は、その後三十六人衆として自衛と自由自治の精神を酒田に根付かせていきました。

本町通り
 長人(おとな)と呼ばれる三十六人衆が中心となり、西浜の砂原を開拓し酒田の町並を作ったといわれます。旧暦4月中の申の日(日枝神社祭礼の日)、太陽が日本海へ沈む真っ直ぐの線(正中線)を選び、一ノ丁から七ノ丁まで仕切り、本町と名付けました。ここが酒田町組の中心となり、この通りを軸として栄えました。酒田では東西の縦軸を「通り」、南北の66の横軸を「小路」としました。一説には最上川に沿って町割をしたとも言われています。この町割はそのまま残り、現在の酒田の町並を作っています。

「三十六人衆ゆかりの地」碑
 酒田市役所敷地内にある大きな石碑。酒田市役所前の本町通りには、97軒の大きな間口の廻船問屋が、ずらりと並んでいました。町政を司る三十六人衆は、本町通りに店を構える豪商から選出されました。その中で、家柄・人物・資産から更に候補者を選び、町奉行に願い出て決められました。日本永代蔵に北の国一番と繁栄が記されている鐙屋、市役所の地にあった加賀屋(二木家)、産業会館の所にあった上林家は、三十六人衆の代表格でした。1707年より本間家も長人になりました。松原地という防火帯で囲まれた本町通りに住むことは、商人のステータスであり、憧れでした。栄華を誇った三十六人衆ですが、幕末明治元年まで続いた家系は10家のみです。残り26の家株を巡って、91家が182年間に渡って入れ替わりました。資産の行き詰まりから短期間で退役を願い出る家も多く、儲けも大きいがリスクも大きい廻船問屋業の豪快さと脆さが感じられます。

旧鐙屋、本間家旧本邸とお店 ※「第一章 3.本間家旧本邸・お店」に詳しい説明があります。
 本町通りにあり、当時の面影を現代に伝える貴重な建物です。

「奥の細道」 松尾芭蕉 句会の跡 ※第四章 日和山界隈 3.酒田と「奥の細道」に詳しい説明があります。
 元禄2(1689)年の旧暦6月13日、酒田を訪れた松尾芭蕉は本町通りの三ヶ所で句会を開きました。

○寺島彦助宅跡 「暑き日を海に入たりもがみ川」 芭蕉
 酒田港の浦役人で、幕府米置場の管理をしていました。芭蕉は酒田に入った翌日に彦助宅の安種亭で句会を行いました。始めは『涼しさを』と詠み、後に「暑き日を」と改作しています。豪商達も同席し、もてなしました。本町郵便局向かいに標柱があります。

○伊東不玉宅跡 「温海山や吹うらかけてゆふ涼」 芭蕉
 この句は、象潟から酒田へ戻っての発句で、不玉は「海松(みる)かる礒に畳む帆莚」と返句しています。伊東不玉は医者で、医号淵庵・俳号不玉・本名玄順と三つの名前を持ち、酒田の俳諧に貢献しました。芭蕉は酒田滞在中、不玉宅に宿泊しました。

○近江屋三郎兵衛宅跡 「初真桑四にや断ん輪に切ん」 はせを
 酒田三十六人衆の子孫で俳諧を嗜み、伊東不玉の弟子でした。自宅の近江屋で納涼の即興句会を催しました。芭蕉は直筆で懐紙に「はせを」と印し、「玉志亭唱和懐紙」(あふみや懐紙)として本間美術館で保管しています。荘内証券の前に標柱があります。

酒田市道路元標
 道路元標は起点を示し、役場の前や大きい道路の交差点に置かれました。この十字路角には明治12年に新築された飽海郡役所がありました。役所は明治27年の大震災で一部倒壊し、大正5年に現在の市役所の移転改築しました。その旧郡役所跡に道路元標だけが残されています。

松原地の名残の松
 酒田は火災が多く西風の防火対策として、高塀を作り常緑樹のタブの木を植えました。今も本間家旧本邸や旧鐙屋に残ります。明暦2年の地図に残る松原地は、山王堂町から秋田町までの6mの空地で、松を植えた長い防火帯でした。旧鐙屋の裏にある1本の松は、松原地の名残の松だといわれています。酒田では昭和51年の大火を含めて、かつて1千戸以上が焼失した火災が7回あります。強風の向きは、西風が3回、東風が4回、海からの季節風だけではなく春から夏のダシ風も大火の原因でした。

明治天皇東北御巡幸跡
 明治14年、明治天皇東北御巡幸が決まり、酒田での宿泊先をどこにするか大騒動になりました。本間家別荘が有力視されていたところ、渡辺作左衛門が無理に権利を奪い、立派な邸宅を建ててしまいました。屋上庭園は、山田挿遊の作庭でした。莫大な出費で、翌年、渡辺家は潰れてしまいます。記念塔も戦争中の供出で土台しかなくなり、松だけが当時を物語っています。

庄内薬師水
 本町通りを西へ向かうと秋田街道があります。街道沿いの秋田町・伝馬町は、旅籠屋や馬宿が軒を並べ、大変賑わっていました。街道沿いに井戸が何個もあり、井戸町と言われました。その一つに桶屋町の薬師様にゆかりがあり、目に効くといわれた井戸がありました。現在「庄内薬師水」と名付けられた井戸もあり、大切に守られています。

河岸八町
 河岸八町は染屋小路から上袋小路までの八つの町の総称です。船場町が湊として機能するのは350年程前からです。それ以前は河岸八町が酒田湊の中心で、近くに船乗りや湊で生活する人の家がありました。何度も火災に見舞われていますが、この町並は全く変わっていません。明暦2年の一番古い絵図を地図として歩くことができます。時代や住む人は変わりましたが、昔と同じ道が残る懐かしい町です。
染屋小路
 西側の端、山形銀行とアーチ薬局の間の小路。
利右衛門小路
 豪商で長人の村井利右衛門が住む小路でした。
下袋小路
 行き止まりの袋小路でした。
実小路(御宿小路)
 市役所と亀屋菓子舗の間の小路で、前田利家が奥州南部の一揆を制圧した帰路の途中、酒田町年寄役の上林和泉の家に宿泊したことが由来です。
中袋小路
 当時と同じく直角に曲がる、希望ホールへ繋がる小路です。三つの袋小路は、城を守る為の小路でした。
山椒小路
 河岸八町の中心で大変賑わっていました。間口が狭く細長い「半裂屋」と呼ばれた古い家屋が今も残ります。間口の広さで税金が決められた時代の名残です。
稲荷小路
 竜徳稲荷と船の台座に乗った立派な船玉大明神が祀られています。稲荷小路は山居橋へ真っ直ぐに通じ、米を積んだ大八車でごった返す写真が残っています。
上袋小路
 虚空蔵大菩薩を祀っています。当時と変わらない信仰が今もあります。
酒田町奉行所跡を通り、本間家旧本邸へ向かいます。
肴町
 東側に城のお堀があり、家が西側にしかなかったことから、片肴町といわれました。こちらは酒井家が入部する時についてきた14代続く魚屋さんです。お城や本間家に魚や料理を運んでいました。

堀端
 本間家旧本邸の東側まで続いたお堀は、上杉氏時代に城下町と酒田町組を分ける為に作られました。ここは堀の端っこという意味で堀端と呼ばれていました。最上氏時代、志村伊豆守は、土手を突き抜いて「突抜」を作りました。酒井家時代は堀を埋め土手を崩し、内町組・米屋町組から武家屋敷を引き上げ町屋敷とし、次第に武家と町人の境を取り外していきました。

職人町
 本町通りの北側には職人町があり、酒田町組を構成していました。

*聞き取り協力 平成25年 8月 6日 酒田市観光ガイド協会*
        *聞き取り協力 平成25年11月31日  酒田市史編纂委員*

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