湊町さかた観光ガイドテキストブック 「ぐるっと、酒田 まちしるべ」

第一章 商人町界隈
2.旧鐙屋

 江戸時代、酒田を代表する廻船問屋「旧鐙屋」と申します。旧姓は池田と申しておりましたが、400年ほど前、1608年に山形城主の最上義光より「鐙屋」という屋号を与えられまして、それ以来「鐙屋惣左衛門」と名乗っております。廻船問屋のかたわら酒田三十六人衆の筆頭格として町政に参画いたしまして大きな役割を果たしております。
 一番栄えましたのは、1661年の寛文期から1703年の元禄期までの42~43年でございます。当時、江戸の人口が急激に増加しまして、100万人を突破し、世界一の大消費地になり、米の需要、物資の需要が増えました。幕府は幕府の御用商人でありました河村瑞賢に出羽の国の城米を江戸廻米するように命じました。幕命を受けた河村瑞賢は、より早く、より安全に、大量に輸送するために1672年に酒田を起点とした西廻り航路を整備なさいました。酒田と天下の台所大阪、江戸へと直結するようになりまして、多くの船が酒田湊へ出入りしまして大変繁盛しました。酒田からは主に米、雑穀類、大豆、青苧(あおそ)、紅花などを積まれまして酒田を出発し、西廻りとなりますと日本海沿岸を西南の方に走りまして、下関、瀬戸内海、尾道を通って、兵庫、大阪、紀伊半島を沿海しまして、下田、浦賀、江戸にわずか45日で到着できました。時間的にも距離的にも大変短縮され、経済文化両面に渡って発展をいたしました。帰りに特産物であります海産物、塩、鉄、陶器、日用用品、お雛様、石なども積まれてきまして、酒田に船が着きますと廻船問屋は荷主と船頭に無料で宿を提供しました。商談が行われ、商談が成立いたしますと手数料を頂き、荷物を蔵に預かって、自ら商売しまして手数料、蔵敷料を頂いて、収入源としておりました。今で言えば、宿泊機能と商社のような機能を兼ね揃えたと考えられております。
 1688年には「日本永代蔵」という本を大阪の俳諧師、小説家でありました井原西鶴が世にだされまして、その本の中に「鐙屋」の豪商ぶりも紹介されております。一部なんですけれど、『ここ酒田の町に鐙屋といへる大問屋が住けるが、昔はわづかなる人宿せしに、其身才覚にて、近年次第に家栄へ、諸国の客を引請、北の国一番の米の買入れ、惣左衛門といふ名を知らざるはなし。表口三十間裏行六十五間を、家蔵に立てつづけ、台所の有様、目を覚しける。』と紹介されております。その台所の有様といいますと、鐙屋に代々伝わる「家之記」というものがありました。その中の記録によりますと、朝夕の飯炊き釜は梯子を上り下りするほど大きくて、「なます」を作るのに鍬を用いたと、そういうエピソードも記されております。「鐙屋」の大らかさ、繁盛ぶりが示されております。又、一番栄えていた頃、米沢藩、上山藩、山形藩、新庄藩、東根藩、吉原藩、向上藩の七藩の蔵宿として大名などの年貢米を預かり、有利に販売していました。その頃、酒田湊は最上川舟運を利用しました米の集積地、積み出し港として大きく発展し、諸品の流通拡大、全国屈指の集散湊町となられておりました。
 1764年には惣左衛門から惣右衛門と変わっております。1808年には十二代目の時ですけれど、名字と屋号を使い分けるようになりまして、屋号は同じですが、名字は「屋」を「谷」に変えまして「鐙谷」として町政にたずさわる時、又、私的な行事の際など名字を使用するようになりました。鐙屋を表すものとして丸に上星は商標で、商取引きの時に使われました。丸に橘は家紋で、町政や私的な行事の際に使用するようになりました。
 明治になりますと、文明開化と共に東北にも鉄道が及びました。海上交通では帆船から蒸気船へと大型化しまして、最上川舟運も酒田湊も急速な衰退を余儀なくされました。廻船問屋も廃業する人、他業種への転換を図られましたけれども、鐙屋は最後まで廻船問屋を営み、米の仲買人、荷主宿、諸物品委託販売など商業転換を図りながら、明治の末期、廻船問屋の仕事を終わって役目も終わっております。
 現在のこの建物は、江戸末期1845年に甘鯛火災にあいまして、前と同じ形式に再建されました。老朽化が激しかったものですから、平成2年から平成9年まで8年間に渡りまして、大規模な保存修理事業が行われました。酒田の典型的な町屋作りを残しております。石置杉皮葺屋根(いしおきすぎかわぶきやね)という形式をとっておりまして、下地に茅をひき、茅の上に土を盛りまして、その上に杉皮幅一尺二寸、長さ二尺の物を三分の二ずつ重ね合わせまして、三枚重ねになっております。その上に15cmから16cmの平たい川石をびっしりあげております。これが特徴でございます。現在の敷地面積は556坪、建坪は175坪です。江戸末期の敷地面積は1290坪ありました。玄関から裏口まで通り庭の土間になっています。通り庭に面して十間余の座敷、板の間が並んでいます。土間は叩きになっております。質素な佇まいは異和感さえ感じますけれど、そのぶん形式的な古さを伝えております。日本海海運に大きな役割を果たした姿を今に伝える貴重な遺構として一度も移転することなく現在に至っておりまして、昭和59年に国の史跡指定を受けております。
 ここの土間を奥の方に進みますと台所がございます。日本永代蔵の挿絵によって基づかれ、表現されておりまして、「よくござったのー」と言っておいしいごちそうを作っているところでしょうか。それとも商談がまとまりまして、お祝いの宴のためにごちそうを作っているところでしょうか。皆さんもそれぞれご想像してみてはいかがでしょうか。
 奥には煙害や雨風から守るための鞘造りの土蔵があり、現在は資料室となっています。
つたない説明でしたけれど、時間の許す限りごゆっくりご覧になってください。

*聞き取り協力 平成25年5月16日 施設ガイド(説明のまま)*

TOPページへ目次へ前ページ次ページへ