湊町さかた観光ガイドテキストブック 「ぐるっと、酒田 まちしるべ」 | ||
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第五章 寺町界隈 7.東永山 泉流寺 |
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歴史 | ||
宗派は曹洞宗、本尊は釈迦牟尼仏です。 泉流寺の歴史は、酒田発祥伝説と深い関係があります。文治5年(1189)平泉藤原家滅亡の時、遺臣36騎が秀衡の妹あるいは後室・泉の方と称する女性のお供をして平泉を逃れ、立矢沢の妹沢に落ち延び大銀杏の下で隠れて暮らしていました。やがて源頼朝が土肥実平を奉行として羽黒に黄金堂を建立することになったので、身の危険を感じた徳尼公は飯森山近くへ流れてきました。逃げる途中で仏門に帰依していた尼公は、「泉流庵」を結び、敵味方戦死者の菩提を弔いながら静かに余生を送り、建保5年(1217)4月15日87歳で亡くなったとされています。「泉流庵」とは平泉から流れてきたことを表していました。遺臣は三十六人衆となり、災害が続く向酒田の袖浦から現在の当酒田へと町を移し、回船問屋を始め、酒田北前船の栄華の時代の源を作りました。それが酒田発祥伝説です。泉流寺は「泉流庵」から始まり、徳尼公が亡き後は比丘尼に相続され「比丘尼庵」、文亀年間(1501~4年)に鳳室正全大和尚が開山し、第三世となりました。大永年中、大町に移転。承応元年(1652)寺町妙法寺前に移転、享保年間に現在地に移転、天保年間に現本堂ができました。 |
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山門 | ||
観音菩薩と地蔵菩薩が向かい合い座っています。菩薩観音は小野町の大工、粉河屋善右衛門が奉納したようです。地蔵菩薩は享保11年7月宝与道林という浄土宗の酒田の僧が六十六部として全国遍歴を完了した記念に供養仏として納めたもののようです。 | ||
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泉流寺徳尼公廟 | ||
宝暦元年(1751)に泉流寺が火災に見舞われ、徳尼公の木像が焼失しました。本間家三代光丘は、明和元年に京都の仏師に頼み、新たな木像を作らせ、海路で酒田に運ばせました。木像の安置する廟堂も寛政2年(1790)寄進。徳尼公廟は酒田市指定有形民俗文化財。 | ||
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酒田三十六人衆之碑 | ||
毎年4月15日には徳尼公祭が行われます。平泉から生き延びて来た当時の三十六人衆の子孫が集まり供養をします。酒田市の大般若会の曹洞宗のお寺さんとお弟子さんが、三十六人衆の子孫の方と一緒に毎年かかさず法会を営んでいます。この日は住職が徳尼公廟から徳尼の木像を奉持して須弥壇に飾り供養をします。ただし、徳尼公の墓も三十六人衆の墓も泉流寺にはありません。比丘庵は、檀家をとることができなかった為、他の寺の檀家になったと云われています。三十六人衆は本町通りに住む有力廻船問屋で、興亡があり、三十六人衆と言われた家は101軒を数えています。 | ||
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馬頭観音 | ||
徳尼公が乗った白馬が秋田辺りで亡くなり、そこに白馬寺を建てて葬りました。その白馬の霊を祀ったものといわれています。三十六人衆の馬で宿駅となっていた伝馬町で守っていましたが、明治維新以後ここに移されました。 | ||
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六地蔵 | ||
これを祀ったのは、おそらく六十六部の人ではないかといわれています。六地蔵は六道、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上のそれぞれにあって、衆生の苦悩を救済する地蔵菩薩のことです。 | ||
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魚籃観音 | ||
三十三観音の一つに数えられています。昔、中国に魚を行商する美しい女がいて、美貌にあこがれ結婚を申し込む男が数多くいました。その美女は結婚相手を選ぶ条件に法華経普門品、金剛経、法華経7巻を唱えられる人としたところ、それに応えたのが馬氏という男で、二人は結ばれたが、実はその美女が観音菩薩の化身だったということです。この石像は、江戸中期頃とみられています。隣は妙見大菩薩の塔です。 | ||
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鑑塔と六俳人の碑 | ||
碑の文字に水を掛けて筆でなぞり、埃を流す墨流直し法会が昔は行われていました。天明5年、美濃派宗匠玄武坊が酒田に来られて、各務支考の鑑塔(墨直し塔)を建てたのが始まりです。酒田俳諧に名を残した酒田美濃派の宗匠達で、支考、百合仏、玄武仏、漸伸仏、黄梅仏、梅亭仏を供養しています。 | ||
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本堂 | ||
屋根には○に泉の文字が見られます。大変静かな境内です。ここのお庭は普段見ることはできませんが、庄内百景の一つになっているようです。酒田発祥の地、宮野浦の飯森山近くに出羽遊心館があります。そこに徳尼公にちなんだ「泉流庵」という名の茶室があります。 この観音様は、昭和51年の酒田大火の時に檀家さんのお庭で倒れていたものです。こちらに持って来られたので飾っています。とても優しい感じの観音像です。 |
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正塚の婆さん | ||
子供達が言うことを聞かない時に「連れて来る」というと怖がっておとなしくなるそうです。泉流寺では「ショッカのバア」と呼んでいます。奪衣婆とも云われ、三途川の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る老婆のことです。剥ぎ取った衣類は、懸衣翁という老爺によって衣領樹にかけられ、衣の重さはその者の生前の業が現れ、その重さによって死後の処遇を決めるとされています。奪衣婆は閻魔大王の妻であるという説もあり、奪衣婆は、疫病除けや咳止め、特に子供の咳止めに効き目があるといわれました。 | ||
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薬師如来像 | ||
この傘福は、傘福の会の方に4月に貸し出ししています。大変立派で手が込んでいます。 | ||
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十六羅漢 | ||
お釈迦様の弟子で特に優れた代表的な16人を十六羅漢としてお祀りしています。祀られている沢山の地蔵様は、お子さんを亡くした方達が納めました。ここに掛けられた傘福は、春になりますと、毎年あいおい美術館で展示する為、貸し出しをしています。 | ||
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* 聞き取り協力/平成25年7月24日 泉流寺関係者・酒田観光ガイド協会* | ||
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