湊町さかた観光ガイドテキストブック 「ぐるっと、酒田 まちしるべ」

第五章 寺町界隈
8.清涼山 大信寺

歴史
 浄土真宗西本願寺派のお寺です。開山は浄泉坊了玄、ご本尊は阿弥陀如来像です。新田義貞の血縁者である浄泉坊が宮野浦に道場を創始し、その後寛永元年(1624)、この地に移りました。代々の大信寺ご住職は、儒学、茶道の玉川遠州流、漢学、川柳を酒田に広めました。

本堂
 明治27年10月22日午後5時35分に発生した庄内大地震で倒れました。庫裏が立派だったので、仮本堂として長く使ってきました。平成10年に今の本堂が再建され、平成14年に庫裏も改築しました。

鐘撞き堂
 安永7年、藤井家が寄進しました。鐘は一度、戦争で供出しています。除夜の鐘は10時から12時まで撞いて、12時になったら一つ撞いて終わりです。毎年、檀家さんや子供達が撞いてくれるそうです。

墓碑
羅南丸殉難の碑 昭和9年、朝鮮郵船株式会社の貿易船、羅南丸が佐渡沖あいで沈没し、乗組員39人全員が亡くなりました。27人の朝鮮の方は、身元がわからず荼毘に付されました。三十六人衆の一人で、檀家総代、商工会議所会頭もされた根上善蔵さんは、遠い地で無縁仏になった朝鮮人の哀れさに心揺さぶられ、人々に呼びかけ弔魂碑を建てました。それが、羅南丸殉難の碑です。それが日朝友好協会で知ることとなり、朝鮮の方々がお参りにみえるようになりました。
北前船乗組員 墓碑 寺の過去帳をみると、400名余りの千石船乗組員の死亡者はここで密葬されました。関西出身者で浄土真宗西本願寺派の船乗りさんが多かった為かもしれません。千石船が着くと船員は着替えをして、大信寺にお参りみえたということです。体の具合が悪くなってそのまま亡くなられる方もいました。西本願寺派は酒田で一家寺です。庄内では広野と加茂にあります。「水夫 泉州」と書いた墓があります。兵庫県の広島寄りの出身の方です。石見国と書いてあるのは島根県。時代も寛文、明和とあります。墓石は亡くなった方の出身地のものだそうです。千石船の船底石をバラストといいます。その地から乗せて来て、この形に切って来たそうです。浄土真宗の墓碑には「釋」の文字が彫られます。釋はお釈迦様の意味で、「猫も杓子も」は、猫は氏子のこと、杓(釋)子は仏の弟子の意味です。
佐藤泰太郎さん墓碑 山王くらぶ、相馬屋、旧港座などを建てた酒田の名棟梁でした。神仏分離の時に沢山の仏像、仏具を集めました。現在、仏像は羽黒山の方に預け、佐藤コレクションとして展示されています。
森藤右衛門さん墓碑 明治7年に庄内の農民が、酒田県に対して起こした、ワッパ騒動という農民一揆がありました。日本最長期の騒動と云われ、全国的にも有名です。ワッパ弁当にお金を入れた額に相当する不正を酒田県はしているので、それを取り返すという意味で名付けられました。自由民権家だった森藤右衛門は東京に出向き言論、法廷闘争を起こしました。それが長引いて、三十六人衆で資産家だった森家は傾いてしまいますが、闘争は勝利を収め、森藤右衛門の名前は知れ渡りました。両羽新報という新聞を発行し、酒田町長、県議会議員を務めています。44歳で亡くなり、両親のお墓にそのまま入っています。板垣退助、河野広中は、ここに詣で記念碑を早く建てるように言ったそうです。2012年9月16日に森藤右衛門顕彰碑が元酒田県庁の跡地で酒田東高校隣の公園に建立されました。森藤右衛門は、子孫がいませんので、現在は大信寺の管理下になっています。緑に囲まれたお墓です。

経蔵
 一切経が入っている輪蔵です。寛政2年、220年程前に藤井伊兵衛さんが京都から買って、ここに寄進しました。屋根瓦の飾りが変わっています。家康の好きな物三つが乗っているとも言われ、京都でよく見かけるそうです。明治27年の庄内大地震の時、本堂は倒壊しましたが、この蔵は倒壊せず残りました。京都から部品がバラバラに届き、蔵の中で組み立てし完成したようです。黄檗本、桜木刷り、鉄眼の一切経が納められています。一回転すると全部読んだ事になるというものです。この中に入っているお経の題目が書いてあるのもあります。

聖徳太子堂
 宝暦10年根上善兵衛さんが寄進しました。常夜灯も同じです。

* 聞き取り協力/平成25年7月17日 大信寺住職*

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