湊町さかた観光ガイドテキストブック 「ぐるっと、酒田 まちしるべ」

第十一章 酒田市以外
1.旧青山本邸

 青山留吉は、遊佐町青塚に生まれ、24歳で単身蝦夷地に行き、ニシン漁で成功、北海の漁業王といわれ、81歳で波乱の生涯を閉じました。江戸時代の後半、天保7年、1836年に現在の遊佐町比子字青塚の漁師、青山嘉左衛門、きよの間の6番目の子供として生まれました。家は貧しく、小さい頃から母の行商を手伝いながらも、隣にある願専寺で読み書きを学び、15歳では父の漁業を手伝い生計を助けていました。18歳で今の由利郡象潟町の旧家に養子に出されました。しかし、余りにも古い家風を重んずる家風に合わなく、22歳の時に青塚の生家に戻ってきました。再び父と漁業の毎日でしたが、すでに一人前の漁師としての腕を持っているだけに青年留吉にとって何か満たされない毎日を送っていました。時々酒田港に姿を見せる千石船や出入りする船を眺めては、見知らぬ大地への夢を膨らませていたのでした。この頃、すでに酒田港には北海道の松前地方から鮭やニシンが持ち込まれ、酒田からは米や酒が積み出されていました。当時、松前の漁師は白いご飯が食べられると聞いて、松前は漁師として夢と希望が持てる所と映っていたのです。
 時に、1859年、安政6年1月2日、青塚の砂浜に立っていたのが青年青山留吉、繫がれていた父の船の舫いを密かに解いていました。北風の吹く中、一人蝦夷地、松前を目指して船出したのです。青年留吉の血は熱く燃えたぎっておりました。後に晩年を過ごした生まれ故郷の青山本邸から見つかったこのミニチュアの船が留吉が漁業王として成功を収めた時に船大工に作らせたものとみられております。庄内で使われていた庄内川崎船と殆ど同じ寸法になっていることがわかりました。青山留吉は船出の時に使ったこの型の船を終生の宝物として大事にとっておいていたのでした。男鹿半島、ツバキ、津軽と渡り、津軽海峡はいい風を待って一気に渡りきります。松前、積丹半島と通り、当時すでに庄内の漁師が雇われ漁夫として働いていた、今の小樽市祝津に着いたのです。
 祝津に上陸した留吉は網元の寺田九兵衛に雇ってもらい働き始めました。7ヶ月間漁夫として働いた留吉は、ニシン漁が大きな利益が上がることに気がついたのです。漁師として一生を懸ける物を見つけたのです。雇われ漁夫の期間が終わって、いったん生家に戻った留吉は、父や姉の死を知らされますが、残った母にニシン漁こそが自分の目指す仕事で北の海でこれからもやりたいという考えを話し、二度目の船出をしたのです。祝津に戻った留吉が網元の一人から漁場を借りて、鱈釣り刺し網漁に乗り出します。この時期は留吉が最も苦労した時代です。後に建立された頌徳碑の中に次のように記されています。風や雨をしのぎ、簡単な茅の屋根の小屋を作り、沿岸で漁をしては小樽に行商し、荒れた日も海に出ては危険を顧みず、腕と勇気で乗り切ったと記されています。
 時代は江戸から明治に移り、留吉は協同で漁場を借り、祝津で念願の土地を求めることに成功しました。33歳の時です。故郷を思う気持ちの強い留吉は土地の名義を生まれた家の嘉左衛門名義にしたのです。明治4年、36歳の時には1300坪の土地を譲り受け、いよいよ建網漁にも手を広げ、若手の漁業家として頭角を現してきました。今も残る当時の青山漁場の番屋です。ロウカと呼ばれ一番海に近いところに建てられる物で、陸揚げされたニシンを一時保管する時などに使われました。
 明治9年から20年代にかけての青山留吉は先を読む先見性と見事な統率力で青山漁場を次々と拡大、漁業王への基礎を築き上げていったのです。青山留吉は祝津の青山家と青塚の青山家を確固たる物にするために一つの決断をします。故郷の青山家は孫のエイサクに嘉左衛門を名乗らせ後を継がせることにしました。祝津の漁場は政吉、タキの夫婦に引き継ぐことに決めたのです。留吉は70のしるしと三つ頭の家紋の元に青山一族が結束し繁栄することを願ったのです。明治9年にはこれまでの規制が解かれ、誰でも自由に土地と漁場が求められるようになりました。留吉は更に新しい漁場を開き、後継者の政吉に任せ、ニシン経営を更に広げていきます。明治の半ばからは、北海道の西海岸は豊漁が続き、いわゆる百万石時代を迎えます。しかし、建網の発達で漁に莫大な資金が必要となることから、網元には事業の失敗から没落していく者もでてきました。この中で青山留吉は着実に事業を伸ばしてきました。青山漁場ではニシンは魚にあらず、米なりの格言が生きていました。明治19年青山留吉51歳の時には、建網15ヶ所、漁船130隻、使用人300人を越え、漁業王としての地位を確立していったのです。
 北海道開拓村には、当時の模様を知ることができる青山漁場の元場が復元されています。玄関は二つあり、親方と漁夫の出入り口が別々に設けられています。本州からの出稼ぎ漁夫も多く、青山漁場には庄内からの出稼ぎ漁夫も来ていました。ニシンが来ると何日も沖で暮らすこともあり、きつい労働といわれていましたが、それだけに賃金もよかったのです。青山漁場ではこの漁夫に白い飯を食べさせるため、専用の農場を設けて米を確保していました。元場の建物は庄内出身の腕のいいお抱え大工に作らせており、贅を尽くした庄内地方の特徴を持った建物になっております。ニシン漁の成功で得た莫大な資金の元に故郷青塚に家の新築を思い立ちます。
 建物の棟上げ式の時に書かれた棟札、漁業に忙しい留吉が新築にあたって嘉左衛門の後見人の青山米吉に全てを任せたこと、それを任せられた米吉の決意が記されています。母屋の完成に続き、明治の末までに奥座敷、庭園、船大工小屋と次々と作り上げ、今の旧青山本邸が出来上がりました。鳥海山の麓から運んだ4mにも上る守護石は三ヶ所に自前の橋を架けて運ぶという大変な作業でした。
 北海道祝津に別荘として造られた旧青山別邸は6年の歳月をかけて完成しました。建物は北の美術豪邸として知られ、青山留吉の活躍した祝津の海を静かに見下ろしています。青山留吉が仕事場とした祝津の元場は、北海道の開拓村に復元され当時の青山留吉がニシン漁に懸けた心意気を今に伝えています。 そして故郷に造った青山本邸は今、旧青山本邸として蘇りました。24歳で小舟を操り、単身蝦夷地に船出して、漁業一筋48年。北海の漁業王と呼ばれ、一代で巨万の富を築いた青山留吉。大正5年4月19日、生まれ故郷のふる里で81歳の生涯を終えたのです。(ビデオ説明より)
 旧青山邸は、本邸、資料館、蔵、庭と、どれも立派なものです。平成12年、国の重要文化財に登録されました。旧本邸は、床や柱は欅の春慶塗り、漆くい壁、神代杉の巾広天井、うぐいす張りの廊下、端から端まで継ぎ目のない一本物の長押し(なげし)で回されていて、紫檀、黒檀、タガヤサン、杉、つげを使った書院造の床の間があります。ふすまの引き手は七宝焼で当時は宝石と同じ価値だったといいます。欄間は、竹、紫檀、黒檀に彫刻が施されてあり、日本画の絵師たちが競って描いたふすま絵、書も見事です。天井が蠅で汚されるのを嫌い、天井に白い折り鶴を下げています。蠅が白い物に付くという習性を利用しました。台所にはアイスクリームを作る道具などもありました。

*聞き取り協力 平成25年10月30日 施設職員・ビデオ説明*

TOPページへ目次へ前ページへ