湊町さかた観光ガイドテキストブック 「ぐるっと、酒田 まちしるべ」

第十章 旧松山町
1.松山文化伝承館・松山城大手門

松山藩の歴史
 正保4年、松山町周辺は酒井忠勝公の遺言で、三男の忠恒公に分封されました。忠勝公は、徳川四天王の一つ酒井家の酒井忠次の孫、庄内藩酒井家初代藩主です。
 寛文2年、初代松山藩主忠恒公は、17戸の寒村に「中山陣所」という屋敷を構えました。寛文4年(1664)、鶴ケ岡城と亀ヶ崎城のツルカメから縁起を担ぎ、中山の地名からマツをとり、松山と改名しました。この時、築城は幕府から認められませんでした。三代目の忠休公は、26年間、江戸二の丸若年寄などの要職を勤め、功績が認められ、築城、櫓門の許可が下りました。上州桐生に5千石の加増もされ、松山藩は2万5千石となりました。明治の廃藩に至るまで、8代目忠匡公に渡って209年間藩政が布かれました。
 現存する大手門は、東北に残る最古の城郭建造物の一つです。大手門と言っていますが、実は三の丸の櫓門(通称、多聞櫓)です。建築から8年後に、一度は落雷で焼けてしまいますが、酒田の本間光丘の援助で、すぐに再建しました。江戸時代から続くこの門は、山形県の重要有形文化財です。

松山文化伝承館
第一展示室 元禄10年頃の松山周辺の絵図です。当初、松山藩には2万石の領地がありました。松山周辺の8千石と、左沢の周辺の1万2千石です。左沢は、改易された加藤清正の息子、忠広の監視をする為の地でした。当時、大名になる為には、1万石が必要でした。最上川は川筋がよく変わり、土地の訴訟にまで発展しました。
 本間家の寄進により作られ、大手門に乗っていた二代目のシャチホコです。青銅製で1m50㎝程、重さも100㎏程、28両と言われています。鼻の大きい方が雄で、もう一方が雌といわれています。二代目も三代目も荘司鋳物さんが制作しています。ここに三代光丘と娘婿である重利の名前が刻まれています。本間家は鶴岡や松山にも財政的な援助をして下さいました。大手門再建の時は、重利が松山藩に入って財政の建て直しをしていました。
 三領とも酒田市の指定文化財になっている鎧です。中央の鎧は、三代目忠休公着用の鎧と云われ、胴の毛皮が寅です。日本にいない寅の毛皮は外国から輸入で、兜の裏に描かれた細かい模様等、大変高価な殿様の鎧です。兜の家紋は、松山藩の四角に鳩酸草です。丸に鳩酸草は、荘内藩酒井家の家紋です。鎧は30㎏程あり重いです。殿様は基本的には戦いません。多少重くても威厳のある鎧をしていたようです。左側は武将級の方の鎧です。この毛皮は熊です。鎧あるポケットには、鼻紙や弾薬を入れました。
 戊辰戦争の資料です。松山藩は庄内藩と一緒に佐幕派として戦いました。秋田との戦いで活躍したのが、庄内藩士の長坂欣之助(松森胤保)です。幕末に松山藩の付家老を命ぜられ、松山藩の隊長でした。松山を守ったので、藩主から松守という名を頂戴しますが、それでは恐れ多いということで松森と変えました。酒田工兵隊の隊長は、野球で楽天に入団した下妻君の曾おじいさんでした。戊辰戦争で活躍した、庄内藩士・酒井玄蕃の兜が展示してあります。白いヤクの毛皮と、頭の獅噛みに特徴があります。鎧は櫛引の春日神社に奉納しています。当時の旗印は統一した幕府軍旗ではなく、藩ごと違いました。松山藩の旗印は、朱丸で四隅の一角が水色に染まっていました。
 松山藩は江戸で亡くなった人は江戸の神楽坂光照寺に、松山で亡くなった人は近くの心光寺に祀りました。これは珍しい事で、神楽坂光照寺の松山藩主の墓は新宿区の遺跡になっています。お寺の方ではもっとその場所を有効利用したいと考えていますが、藩主の墓がある寺は少ないのでそのままおかれています。
 火縄銃があります。大変きれいに保管されています。「なんでも鑑定団」の澤田平さんも何度もここにお出でになり、国内で一番手入れの行き届いた鉄砲隊だと褒めていただきました。使った後は、すぐ手入れをしているそうです。松山藩荻野流砲術は藩指定の砲術とされ、教えを請う藩が習いに来ました。明治4年に廃藩と共に砲術隊は姿を消しました。火縄銃は1本13㎏位です。現在は酒田祭りや松山祭りの時に演舞をお見せしています。

第二展示室 郷土出身の偉人の業績を展示しています。現在は四名ほど紹介しています。
企画展示室 阿部次郎生誕130年「阿部家のひとびと~次郎とその兄弟たち~」の展示。
真下慶治記念館 母なる川「最上川」をライフワークに作品を書き続けた洋画家、真下慶治の作品を中心に展示しています。戸沢村に生まれ、最上川の源流から河口までを書き続け、晩年は松山にアトリエを構えました。松山の眺海の森からはいろんな景色が見えます。7月中旬から下旬にかけては、山、海、川に映る3つの太陽。それから3本の川筋です。真下さんの絵は親しみやすく、見ていても疲れません。
ロビー  松山出身の佐藤公紀さんの素描画が展示されています。伊東深水に学びました。

松山城と大手門
 松山藩城下の設計は宗藩宮田流の軍師長坂十太夫正逸です。天明元年、築城に着手し、7ヶ年の歳月と莫大な資金を投じて、二の丸・塁・溝・しょう壁、大手門が完成しました。築城当時、本丸・二の丸の総面積は38,708坪の広大なものでした。完成を盛大に喜びました。その時上演された「松山能」が、現在まで伝承されているものです。
 天明2年に大手門が完成しました。棟の高さが12.75mの2階建です。寛政2年、落雷の為に炎上します。寛政4年、本間光丘の寄進により再建されました。松山藩の四角に鳩酸草(かたばみ)の家紋が、シャチホコの下と四隅にあります。この瓦は松山で作られたと言われ、200年近い瓦です。荘内藩の家紋がある瓦も見受けられます。明治8年に鶴ケ岡城が解体された後、藩士が瓦を背負って松ヶ岡まで運び、松岡に運んできたものです。補修用に使われました。戊辰戦争までは門扉があり、殿様が城にいる時には門を開き、参勤交代で不在の時は門を閉めていました。家臣達はこちらの小さな通用門を使っていました。本来は向こうにある冠木門から入り、大手門をくぐって城中に入ったとされます。平城で天守閣はありません。敵が攻めて来た時に大手門が簡単に落ちないように階段はありません。縄ばしごで昇降しました。大手門の上には、武器や兵糧や食物を保管していました。昔は鶴岡が見えたと言われています。
 戊辰戦争後、「城郭破却の命令」が出され、明治元年9月に開城し、城地没収、城取り壊しとなりますが、明治2年11月11日、城俊章少将が城郭破却の状況検分にこられ、「この大手門一つ残したところで今更謀反でもあるまい。取り壊すには及ばぬ」として取り壊しを免れました。その時接待したのが藩主忠匡公のお守り役の絵師、田中静居でした。田中静居は坊城俊章少将と親交があり旧交を温めました。静居のおもてなしに感銘し、取り壊されなかったといわれます。坊城俊章少将は一代目の山形県知事です。
 明治36年に大改修しました。ここは寺子屋のように教室として使われました。大正時代は藩校の流れを汲んだ松山正心学校がありました。尋常小学校を卒業して高等学校に行かない子供達が夜間にここで勉強をしました。新館ができるまで、正月の「謡いの会」の練習をしていました。昔はここに役場があり、松嶺高校がこの門と渡り廊下でくっついていました。この門の下が高校の玄関でした。70代の方はご存じです。松山の歴史を物語る大手門です。

松山藩と所縁のある建物
中山神社
 松山と名付けられる前は中山という地名でした。中山神社には、徳川家康の嫡男、松平三郎信康と酒井藩祖酒井忠次を祀っています。酒井忠次は徳川四天王の筆頭でした。
心光寺
 浄土宗増上寺の末寺。松山藩酒井家の菩提寺。
平田の権現さん
 東禅寺城の城代、東禅寺城主として甘粕備後守景継は大町溝の基礎を築きました。その方がよくお参りに見えました。
松山城本丸の土手
 松山城本丸北側の土手及び内堀跡であり、堤上に老松が築上当時のまま残っています。
松山城十三濠
 松山城三の丸南側の濠跡。
松森胤保像
 松山藩家老。物理等に趣味を持ち「両羽博物図譜」は県文化財

*聞き取り協力 平成25年12月11日 松山観光ガイド協会・松山伝承館 調査員*

TOPページへ目次へ前ページへ次ページへ