湊町さかた観光ガイドテキストブック 「ぐるっと、酒田 まちしるべ」

第一章 商人町界隈
4.本間家当主の歴史

○本間家以前の流れ
平安初期(9世紀)   城輪柵(平安時代の出羽国府)が置かれる。
明応元(1492) 宮野浦から現酒田への移転を始める。
大永元(1521) 三十六人衆による町づくりが始まる。
文禄2(1593) 上杉景勝が甘粕景継を東禅寺城主とする。
慶長6(1601) 最上義光が志村伊豆守を東禅寺城主とする。
慶長8(1603) 東禅寺城が亀ヶ崎城と改名される。
元和8(1622) 酒井忠勝が荘内に入部する。
寛文 12(1672) 河村瑞賢が、酒田湊を基地とする西廻り航路を整備する。
貞享5 (1688) 鐙屋の繁盛ぶりが井原西鶴「日本永代蔵」に紹介される。
元禄2 (1689) 本間家初代原光が分家し、新潟屋と号する。
松尾芭蕉が奥の細道紀行で酒田を訪れる。

○本間家当主の歴史
本間家初代原光 1689年(元禄2)家督 本間久四郎・原光は、酒田本間家の初代当主です。本間久右衛門の次男として生まれ、本町一丁目南側に分家し「新潟屋」を開きました。旧本間家本邸前に残る「お店」です。1707年、三十六人衆の一人となり、1725年、米300余俵を庄内藩主に献上しました。これが本間家最初の献上といわれています。山王祭の折り、神宿を務めました。

本間家二代光寿 1730年(享保15)家督 三十六人衆の一人として、問屋衆の信望を集めました。庄内藩への献金や、米1200俵を献上して、藩から七十俵の扶持を与えられ登城も許されました。山王祭の折り、神宿を務めました。本間家として初めて土地を購入しています。

本間宗久(1717~1803) 初代原光の五男である宗久は、兄の光寿が病弱の為、委託をうけて家業を引き受けます。米相場で身代を10倍余に増大させ、本間家の基盤を作りました。ところが播州姫路「奈良屋」での家業修行から戻り家督を継いだ光丘は、「投機事業に従事することを許さざること」とし意見が合いませんでした。相場商いは厳禁させられ、宗久は本間家から義絶されます。大阪から江戸と渡り、米相場で莫大な財産を築きました。後年は、光丘と和解し、本間家を側面から支えました。『酒田照る照る、堂島曇る、江戸の蔵前雨が降る。』といった唄が流行るほどでした。相場の神様、宗久の編み出した「三位の法」「酒田五法」は、相場の虎の巻として今も珍重されています。

本間家三代光丘 1754年(宝暦4)家督 光丘は本間家の中興の祖と言われます。
 幼少の頃、覚寿院で経史を学び、寛延3年(1750)19歳のとき姫路の豪商奈良屋家に奉公に行きました。宝暦4年(1754)父死亡のため帰郷し家督を継ぎます。田畑の集積や諸藩への大名貸しなどを行い、商いを全うさせ屈指の大地主に成長します。1767年藩士となり1770年加増され五百石三十人扶持となっていきます。士農工商の身分制度の厳しい時代、名前を区別し「本間四郎三郎光丘」で藩に仕え、「本間庄五郎」で商売をしています。
 雇船で上方と商いをする一方、凶作で農民が離散してしまう荒れた農地を収穫できる農地に変えるようとの依頼で田畑を買い取り、その他の田畑も買入し田畑を集積、諸藩への大名貸しを行い、荘内藩主酒井家、米沢藩主上杉家の財政支援にも尽力しました。
 庄内浜の風砂で甚大な被害を受ける酒田の土地に、クロマツの防風林を作った人として知られています。この植林がなければ、現在の酒田はなかったといっても過言ではありません。植林事業と同時に、寺院を建立し向学心旺盛な青年のため学問所を造ることを計画、38年間にもわたり願い出ましたが、幕府から許可が出ませんでした。そこで植林事業を成功させました。日枝神社の一角には「松林銘碑」がこの事業を讃え建立されています。八代当主光弥の時代に功績が認められ、光丘に贈位があり、有志の尽力で「光丘神社」が建立されました。光弥は光丘の遺志を継ぎ、その御礼に収集してきた数万冊の蔵書を寄贈し「光丘文庫」を設立と同時に酒井家・風間家の御協力で「荘内育英会」が設立され、今日でも続けられています。黒松林も「万里の松原」と呼ばれ、人々の憩いの場であると共に、小・中・高校生の「学習林」としても利用されています。光丘の「学びの場」という願いがここでも着実に受け継がれています。
 酒田の町の繁栄を願い、京都の祇園祭に範をとり、大きな山車を京都の人形師に依頼し「亀傘鉾」を作成しました。戦前までは山車行列に参加していたようです。高さ5mほどもなる山車は、現在山居倉庫「夢の倶楽」に飾られています。
 又、私財を投じて寺社仏閣へ寄進、幕府巡見使宿舎の建設(現 本間家旧本邸)、冬期失業対策事業、公共・水利事業、また酒田町雑用銭引足元立金、冬貸助力銭、農民救済基金、体の不自由な方への座頭貸などの金融対策を行っています。「町と共に歩む」という理念のもと、商いを全うさせ地域に貢献しています。
 「蓬莱舎其山」と号す美濃派の俳人でもあり、俳諧を広めました。質素倹約を常とし、旧本邸の自室は5畳で北西の隅に位置しています。

本間家4代光道 1801年(享和元)家督 本間家の隆盛は光道の時代に確たるものになりました。光丘からの藩への献金も引き続き行い、1808年4月、本間家は始めて自船である日吉丸を新造しました。他の船を頼る商売から船主となり、船場町に新問屋、本間船6隻を建造し、蝦夷地・津軽藩・南部藩と交易を始めました。土地の集積も活発に行っています。度々の大火により罹災者を救済し、酒田に火消組を組織させます。荘内藩藩校致道館を現在の場所に移転する際に、御用掛を命ぜられ、移建費用全て負担し工事の指揮にあたっています。長崎など全国から図書を集め蔵書印を作らせました。現在蔵書は光丘文庫で大切にされています。又、神明坂を整備し荷役の便を図ったり、丁持ち・沖仲仕たちの冬期失業対策事業として浜畑に別荘(現 本間美術館)を建設するなど公益事業にも尽力しました。俳人常世田長翠を招き俳諧を学び春秋庵門下となり「美杜李」と号し俳諧を普及させました。

本間家5代光暉 1825年(文政8)家督 この時代は、庄内藩と密接に繋がり、献金も増えました。日光東照宮修繕費用や外国船の来航に備えて、庄内沿岸の防備費、大砲五門を献上しました。天保の大飢饉では、手船で資金の続く限り米を買い入れ、施粥所を儲け難民を救済しました。1840年、庄内藩主長岡転封の際、光暉は密かに資金を提供し、庄内あげての阻止活動の後押しをしました。金融活動による土地の集積と、下蔵、新問屋を中心とした海運、商業、倉庫業により、財力の蓄積は膨大なものとなりました。この頃から「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と謡われるようになったと伝えられています。

本間家6代光美 1863年(文久3)家督 庄内藩は、戊辰戦争で孤立無援中の中、最後まで戦いました。長州征伐、戊辰戦争の時に軍資金を献金しています。転封阻止のため、五万両を献納し、政府との折衝や金策に最大の努力をしています。五万両以上の献納は、日本の数ある中でも5人しかおらず、本間家の富の大きさを示しています。廃藩置県後は酒田県権大属、司農方生産掛、勧農掛など歴任しました。乾田馬耕を普及させるために福岡より伊佐治八郎を招き本間農場を設置させ、試験田を作り耕地整理の推進、稲の品種改良などに力を尽くしました。乾田記念碑、耕地整理の記念碑が各地にあります。下日枝神社には、伊佐治八郎の肖像画と乾田馬耕の農具が懸額として奉納されています。
 大正時代になると川から水を引くポンプが必要となり、たくさんの人達により外国製のポンプを導入しています。そのポンプが二基大切に現存しています。(本楯、砂越)美味しい庄内米ができるようになり、今につながる庄内平野の美田が出来ました。
 明治6年(1873)小学校が制定されると、学校創立費を寄付しています。山居倉庫を設置する際、資金を投じ酒井家が経営に当たりました。茶道をこよなく愛し、玉川遠州流を酒田に広めています。

本間家7代光輝 1875年(明治8)家督 22歳の時に、父光美が隠居したため家督を継ぎ、その時酒井忠篤公に随行、鹿児島まで行き西郷南洲の教えを受けます。明治22年の町村合併時、本間宗家は酒田町の納税総額の3分の1を占めていました。初代町長を務め商業経営の近代化を図りました。明治21年に本立銀行、明治30年に本間農場、明治40年に商業・土地経営のために信成合資会社(本間店)を組織しました。細民救済のため浄福寺住職菊池秀言と自きょう舎を設立させました。学校建築、最上川架橋、日清・日露両戦争、日本赤十字社、恩賜財団済生会等に対しまして寄付を行いました。多方面の功績が認められ叙勲を受けました。

本間家8代光弥 1919年(大正8)家督 本間家の全盛時代の当主で、光美に可愛がられ教えられました。信成合資会社の社長となり、関連の農事関係の事業を全うさせています。山形県農会長、飽海郡耕地整理組合長を歴任し、耕地整理事業の促進に努力し大正末までこれを完成させました。自きょう舎の建物が完成すると酒田報恩会と改名します。後に、社会福祉法人となり現在でも続けられています。光丘が植林の功績により、大正7年に正五位に贈位され、長坂松林を光ヶ丘と名付け、有志の尽力により大正12年に光丘神社が創設されました。光弥は光丘神社のお礼として、光丘文庫を設立しました。ほかにも荘内育英会を設立し、商業高校の土地寄贈、旧国立倉庫の建設にも、本間家は1万坪の敷地を国に寄付しました。

本間家9代光正 1929年(昭和4)家督 商いを全うさせると同時、飽海郡耕地整理組合長、荘内育英会長、酒田教育会理事、(財)有終会長、など多くの公職をつとめています。農事にも努め自作農創設に貢献しています。社会公共・教育・社寺・軍事などに寄付を重ね戦時中には、3機の軍用機を献納しています。出征し昭和20年病気をして終戦を待たず3月に亡くなりました。

本間祐介(1907~1983) 7代光輝の養子となり分家した本間敬治の次男。酒田で釣り具店を営んでいましたが、1943年に本間宗家の委嘱で後見人となりました。戦後の農地開放や本間家の再興に尽力されました。本間美術館館長、山形県文化財専門委員長など芸術・育英・経済など多方面に渡る活躍をされました。

本間家10代眞子さん 1945年(昭和20)家督 第二次世界大戦の戦後の混乱期の中、宗家を維持しました。住み慣れた場所を酒田市に提供し中央公民館として利用されています。本間家別荘を戦後の人々の心を元気づけるため、全国に先駆けて私立の美術館として公開しました。江戸時代に作成された祭りの山車「亀傘鉾」を市に寄贈しました。公共・教育・社寺に寄付を行い、本間美術館の理事長、荘内育英会会長を歴任されました。

本間家ゆかりの場所が今尚大切に受け継がれています。
本間家旧本邸 
山王宮日枝神社 
海晏寺・釈迦堂・経堂(瑞泉庵建立の地に三重塔)
浄福寺唐門 
泉流寺 徳尼公像
松林銘碑
光丘神社
光丘文庫
清遠閣・鶴舞閣(現 本間美術館)四代光道が築造 
松山城 多門楼

*聞き取り協力 平成26年3月13日 参考資料「ジュニア版 酒田の歴史」*

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