湊町さかた観光ガイドテキストブック 「ぐるっと、酒田 まちしるべ」

第一章 商人町界隈
5.酒田市立資料館「商人達の湊町」

酒田商人が住んだ町の様子
 一番古い明暦の絵地図には、船場町はなく山居は島です。町割りされた本町通りや河岸八町は記載があります。河岸八町は川岸に近く便利な所で船宿や米倉庫があり、商人達が御宿を構え発展しました。船場町がない時代は、河岸八町が川端で湊でした。 
 少し年代を経て、改正増補酒田絵図になりますと、船場町ができ、灰色の部分が酒田町組と言われる商人中心の町組、ピンク色が亀ヶ崎城、紫色は内町組、オレンジ色は米屋町組です。この資料館は米屋町組に入り、亀ヶ崎城下町でした。酒井氏が入部してから、酒田町組と一緒になっていきました。
 拡大図では、本町通りは一ノ丁から七ノ丁まであります。三ノ丁の鐙屋は今と同じ位置、加賀屋与助は市役所、上林家は産業会館の位置にありました。三つの町年寄は、三十六人衆の中心となって町政に参加し活躍をした家です。長人(おとな)は、三十六人衆のメンバーの家です。長者番付は本間家が真ん中、他の上位も三十六人衆の家でした。

酒田商人の商いの仕方
 酒田商人は、西廻り航路の発達で、酒田で店を構え、来港する人達の相手をしました。1683年には、毎月300隻以上の船の出入りがありました。船ダンスの金具の付き方で船頭さんの格を判断しました。酒田で作られた船ダンスには、ぎっしりと金具が付いています。お茶や、お雛様等、湿気に弱い品物は、表面に油紙が張られた茶箱で、酒田へ運ばれました。

商人達の活躍 
公共事業や慈善事業 三十六人衆の一つである白崎家の寄付により、医会所十全堂が創設され、貧しい人々に医療を施しました。その後、産婆・准看護師養成などと貢献しました。植林事業では、中町に住んでいた佐藤藤左衛門・藤蔵親子が、遊佐方面の植林に挑戦しています。本間光丘以前の植林の先駆けで、松の植林に辿り着くまで、桃やブドウなどを植えたり、試行錯誤を繰り返しました。他にも一生懸命に植林に取り組んだ人達が沢山いました。飢饉の時も商人達は力を発揮し、人々の救済に当たりました。
藩への献金 本間家、青塚家などの豪商達は、何百両というお金を何回かに分け、藩に渡していました。本間光丘は藩や家臣の借金の整理も行い、藩の経営にも口をだすような形になっていきました。その時に金庫として使われたタンスの扉の内側には、本間久二二郎光丘と書いてあります。二二で四と読みます。幾つかの名前を使い分けました。

商人達の湊町 メイン展示
「御客船帳」 酒田は廻船問屋が沢山ありました。しかし火災で焼失して御客船帳は残っていませんでした。発見された御客船帳は貴重なものです。江戸から明治時代に渡る北前船の入港記録で、入港日、船名、船頭名、商売用のマークである帆の模様も書いてあります。
「さかたいままちごひいき女子しゅ」 今町の遊女達の絵姿と、百人一首を替え歌にした和歌が紹介されています。大阪や江戸吉原では遊里の案内書が沢山作られていました。酒田でも真似をしたのではないかといわれています。版画刷りではなくて一枚一枚手書きです。
「三十六人衆の勤方規約書」 三十六人衆が業務を行う時の慣例や規則をまとめたものです。商人が町政に口を出した時代もありましたが、町民生活に密着した勤めになりました。

商人の教養と文化
心学 農民は産物を生みますが、商人は商品を横流しするだけで何も生まない、商人がお金を儲けるのは悪だという世相がありました。京都の石田梅岩は、正しく商いをしていれば、その利益は決して悪ではないと説きました。酒田で大変流行りました。心学紀行は酒田や鶴岡を巡った時の紀行文です。三十六人衆の家に宿泊し講義を行った事もありました。
漢学 三十六人衆出身の上林白水が、酒田で教室を開き、一時期流行りましたが、定着しませんでした。その代わりに流行ったものが、商売往来物です。往来物とは教科書の事で、商売の時に使う知識の教科書の類いで、京都や大阪から沢山入ってきたようです。
華道 池坊流が流行りました。
俳諧 歌や句を詠むことが大変流行りました。旦那衆にとっては教養と文化でした。拾槑帖(しゅうばいちょう)に、商人の方が詠んだ俳句が残されています。これには、本間光丘の俳号は基山だったとか、才能があった鐙屋家十一代目は早くに亡くなって惜しかったなどと書かれています。
寄進 自分の家にお金を使ってはいけないという決まりがありました。しかし、神社や仏閣に使うことは許されていたので、本間光丘は沢山の寄進をしました。立派な建物を建て、人を招こうという考えがあったようです。大変立派な考え方を持つ人でした。
山王祭り 士農工商の身分制度では、商人は身分が一番下でした。しかし、山王祭りの時は神宿になり、裃を着て刀を差して馬に乗り、町を練り歩く事ができました。祭りの主人公になって歩く事は、商人にとって大変名誉なことで出費を厭いませんでした。この裃の持ち主は、丈の長さから160cm以下の身長だったと思われます。
服飾 「かつぎ」は袖を通して着る着物ではなくて、女性が外出する時に頭から被って着用しました。襟の位置が下がる着物です。酒田には、京都大阪から流行のものが沢山入りました。酒田の女性の髪型やファッションは、秋田本莊から山形の方まで影響を与えました。あまりに流行りすぎて、誰が誰だかわからないので、もう「かつぎ」を被ってはいけないというお達しもでたそうです。
食事 本町4丁目で猩々会が開催されています。その材料は、ボラやあわびという高価なものです。日常的に贅沢な物を食べていたわけではなく、特別な時にお金を使って贅沢をする事が、当時の酒田で好まれていたようです。やつめ汁やエイの煮物など、今はなかなか手には入らない材料です。肉はありませんので、現代から見ると質素な感じがします。

*聞き取り協力  平成25年10月21日 酒田市立資料館調査員*

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