湊町さかた観光ガイドテキストブック 「ぐるっと、酒田 まちしるべ」

第一章 商人町界隈
6.山居倉庫・庄内米歴史資料館・酒田夢の倶楽

庄内米と倉庫
 米が庄内に伝来したのは、縄文から弥生の時代といわれています。庄内平野は米の生育に必要な肥沃な土地です。山の伏流水や最上川の水を田に運び、夏は長い日照時間で米を作るには最適な場所です。この平野の広さは東京ドーム約8500個分です。酒田はこの広い庄内平野で収穫されたお米を各地に運び繁栄しました。
 江戸時代、米の倉庫は酒田に幾つもありました。米俵一俵の規格は各地でバラバラでしたが、酒田では4斗俵を一俵として扱いました。明治時代、米俵一俵が4斗と定められ、重さは60㎏と統一されました。酒田では、大切に米を扱い、きちんと保管していました。

山居倉庫の歴史
 山居倉庫は、120年程前の明治26(1893)年に完成した米の倉庫です。この場所は日本三大急流の一つ最上川と新井田川の間にできた中洲で、「山居島」といいました。旧庄内藩主酒井家は、中洲に土を盛り、石垣を積んで敷地を広げ、この倉庫を造りました。設計は鶴岡出身の高橋兼吉棟梁。完成当時は7千坪程の敷地面積に1棟120坪の倉庫が12棟並んでいました。欅の並木は、倉庫より早い植樹で、140年~150年の歴史があります。
 本間家6代光美は、建設にあたり、当時3万円の資金援助をしています。「本間様には及びもせぬがせめてなりたや殿様に」と詠われた本間家は、権力と財力を持っていました。江戸時代、酒井家は幕府の命で鶴岡酒田を治めていました。しかし酒田は大阪の堺に例えられるように、廻船問屋が三十六人衆という組織を作り、町政をしていました。本間家6代光美は、類焼を避ける為に山居島に建設するように提案をしています。それが、山居倉庫を災害から守り、今も現役の倉庫として活躍する礎になりました。
 米の売買が盛んになった明治初頭は、投機という米によって儲ける儲けないの時代に入りました。その為、庄内米を保管する倉が必要になりました。山居倉庫は酒田米穀取引所の付属倉庫として建てられました。2万俵程の米が、一つの倉にきれいに積み重ねて入れられました。現在、倉庫に保管される米は紙の袋で、およそ2万袋(たい)、大体800トン位です。
 この山居倉庫は、農林水産省から年間のお米の保管料を頂いています。管理は全国農業協同組合連合会山形地区本部庄内統括事務所米穀部酒田倉庫、JA庄内です。現在の敷地面積は、およそ5千坪程、庄内米の現役の倉庫として今も使われています。
▲明治時代
▲明治時代

工夫された建物
 米は生鮮食料品です。常に新鮮な品質を保っていないと美味しい米が食べられません。現在は、機械化され、良い環境で米の管理がされていますが、明治時代は何もありませんでした。そのために工夫した造りが、ここには随所にあります。
土台 ニガリを敷き詰めた上に塩を3㎝位敷き、湿度が貯まらないように工夫されています。敷石の下に丸太を3m60㎝程埋め込んで、頑丈に土台を造っています。その松の木の丸太は120年を経て石のように硬く石化しています。
屋根 屋根は二重屋根で、屋根の上に、又、屋根があり、湿度が抜けるような構造になっています。屋根の支えには、石が積まれています。不安定ですが、この石が瓦の重さも支えています。瓦は新潟県の安田のものです。
 白壁の土蔵造りで、大体16㎝位ある厚い壁です。黒く塗られた板張りは、土蔵を守る覆いで松の板でできています。この覆いはもう何遍も取り替えられています。
西日 美しい欅並木は目を楽しませる為に植えたわけではありません。この倉庫を守る、米を守るという目的で植えられました。西日が強く当たる場所ですが、欅並木の新緑がきれいに張りつめると、西日は防がれ、中の温度は常に12度前後保たれる、自然の力を利用したシステムです。
 今は空調の機械が入っていますが、明治の頃は自然換気で、天窓を開けたり、二重屋根にして湿気を防いでいました。明治27年、M7.0の庄内大地震があり、多くの被害がでました。前年に完成した山居倉庫は、ビクともしませんでした。災害が多かった酒田の教訓を生かした建物です。

欅並木
 今は新緑の季節で青葉がきれいです。樹齢140年から150年の欅が周囲に全部で41本あります。秋になると茜色に染まり、別の雰囲気になります。ここを歩くとマイナスイオンの効果で若返ると言われています。女優の吉永小百合さんがJR東日本のポスターで撮影をされています。オープンテラスは、木陰もあり、気持ちのいい場所です。
 昭和58年にドラマ「おしん」がNHKで放映され、大勢の方が酒田を訪れました。特にここを散策をする方が増え、欅の根元が踏まれ、傷みやすいということで敷石をしました。明治からのものではありません。昭和58年の「おしん」のブームの後「おくりびと」でお出でになる方が増えて来ています。酒田には年間300万人の観光客の皆さんが訪れています。山居倉庫には、年間50万人位いらっしゃるそうです。

三居稲荷神社
 この倉庫を守る稲荷神社があります。三つ居ると書いて「さんきょ」と呼ぶ三居稲荷です。徳川家の禎祥稲荷(ていしょういなり)、酒井家の太郎稲荷と、地元で昔からお祀りしていた山居稲荷の三体を祀っています。災害がないように、良い米が出荷できるように、常にお守りを頂いている稲荷神社です。
※「第一章 7.商人町界隈の神社仏閣」にも三居稲荷神社の説明があります。

山居倉庫の景観
 右端の倉庫は庄内米の資料館、左端の二つは物産館、残る九棟が現役のお米の倉庫として使われています。こういった造りの米倉庫は全国的に非常に珍しいそうです。米の倉庫は汽車の通る駅の前に建つのが普通で、市内の真ん中に倉庫がある景観は大変珍しいと言われます。

米の入出庫
 米の入庫や出庫は、山居橋や船着場を通って行われました。この山居橋は復現したもので、昔は幅が三倍程ありました。米俵が満載された荷車を牛や馬が引き、橋を渡り、川から運ばれてきた米は船着場で入庫や出庫が行われました。

内陸との往来
 酒田は北前船で栄えた湊町ですが、最上川の舟運も盛んでした。内陸からの紅花などは酒田を経由して京、江戸へ渡りました。内陸との間を往復した船を小鵜飼船(こうかいぶね)といいました。海を航海するという言葉をもじった名前で、米は50俵程積載できました。最上川を上る時は、風の力を利用して帆を掛けて上りました。しかし風がない時は動かず、岸の方で人が引っ張って上りました。最上川は、山形県だけを縦に走る母なる川と言われています。吾妻山の山中に源があり、米沢、山形、寒河江、大石田、新庄、酒田と流れます。内陸との交易は、文化の交流にも大きな役割を果たしました。現在、最上川は船で行き来できる川ではなくなりました。この船も展示ですので浮かべることはできません。

東宮殿下行啓記念館
 大正14年、昭和天皇が皇太子時代にお出でになった事を記念して建てられた東宮殿下行啓記念館とお庭です。その後、JA全農山形米穀研究所となりました。

西廻り航路と酒田の繁栄
 江戸に幕府がおかれ、江戸の人口が膨張しました。100万人を超える事態になり、急いで全国から大量に江戸に米を運ぶ必要に迫られました。幕府の命を受け河村瑞賢は、酒田湊を含む西廻り航路を作りました。西廻り航路は、千石船だと150トン、米2500俵ほどを乗せて、日本海の荒波を超えて、瀬戸内海を回り、品川の沖まで2ヶ月かけて運びました。帰りの空船には、各地の銘石などを積み、船を安定させ、更に湊、湊で土地の物産を仕入れ戻りました。それを売る廻船問屋業で、酒田湊の商人は潤っていきました。最盛期、酒田の本町通りには、97軒の豪商の蔵や屋敷がずーっと並びました。
 その中の一つ、宿屋も兼ねた鐙屋は日本永代蔵にも登場する勢いのある大きな廻船問屋でした。現在、建物は旧鐙屋となり中を見学できます。杉皮葺きの石置き屋根の特徴を持つ、江戸時代の町屋作りの建物です。
 旧鐙屋のすぐ側にある本間家旧本邸は、旗本に許された長屋門を持ち、武家造りと商家造りで一つの建物を形成しています。現在、そのまま形で残され見学できます。「本間様には及びもせぬが せめてなりたや殿様に」と詠われた本間家は、日本一の地主として巨万の富を持っていました。商人でありながら500石の士分を許され、庄内藩の御用商人、廻船問屋、大名貸しなど、いろんな商売でお金を儲けました。しかし、奢ること無く公益事業に尽くし、酒田の町を守り発展させてくれた大恩人です。特に、本間家三代光丘は沢山の偉業を行いました。その一つ、今も残るクロマツの植林なくしては、酒田の町はありませんでした。砂丘の為、風が強く砂が吹く、大火が起こりやすい町を救ってくれました。大変徳のある、公の思想の強い本間家の教えは、東北公益文科大学という酒田の大学に生きています。

北前船と台町
 江戸時代、酒田では米を四斗俵の俵と決め、一俵60㎏程でした。北前船と呼ばれた船は、千石、700石、300石とありました。しかし、酒田湊は最上川の土砂が流れ込む為河口が浅く、300石以下の船しか入れませんでした。その為700石や千石の船は沖合に停泊しました。飛島の港に風待ち、避難待ちをした歴史もあります。
 北前船の乗組員は25名程で東京品川の沖まで2ヶ月かけて走り、帰りは商売をしながら戻って来ました。船頭さんは2ヶ月~3ヶ月航海の後、1ヶ月陸に上がりました。酒田甚句の歌の中にもある『今町、舟場町、高野〈こや〉の浜』には、芸者や遊女が沢山いました。その花街の歴史が残した料亭が台町には沢山ありました。酒田の料亭文化の代表格だった相馬屋は、改修して相馬樓という観光施設になりました。現在は、北前船の頃から有名だった酒田舞娘の踊りや、建物の見学など歴史を楽しむこともできます。元料亭山王くらぶには、日本三大吊し飾りの一つの傘福が飾られています。傘福は着物の切れ端を使い願いを込めて縫った品々を傘の下に吊す物で、作る体験もできます。旧小幡は、映画「おくりびと」ロケ地として脚光を浴びています。千石船は、こうして今も酒田湊に繁栄の歴史を残し、町を活性化してくれています。 

庄内米歴史資料館
 庄内米歴史資料館には、山居倉庫の歴史が展示されています。米はインド、中国から九州を経て、2000年位前に庄内に伝わりました。それ以降、お米の特産地、おいしいお米がとれる庄内ということで、庄内米が有名になりました。入庫した米は品質検査をされ、一つの倉に2万俵がきれいに積まれたそうです。米を入庫しますと、入庫伝票のようなものを発行しました。米券と呼ばれ、お金と同じように米券で取引ができました。
 山居倉庫のお米は非常に品質の良い米で、信頼されていました。山居米という銘柄が確立された程です。山居一等米は横縄一ヶ所を黒縄。二等米は黒縄二ヶ所。三等米は縦縄一回りを黒縄と区別しました。山居黒縄米は有名でした。
 米を運ぶ人夫は男女問わずに丁持といわれ、5俵の300㎏を担いだ女性の丁持もいました。
 昭和58年のNHKドラマ「おしん」は、当時の視聴率が60%で、10人いれば6人はおしんを見ていました。今年10月から「おしん」の映画が封切りされ、ドラマにでた小林綾子さんやピン子さんが役柄を変えて登場します。これを機会に、沢山の方が酒田にお出でになる事を願っています。おしんの像は観光施設に何体かあります。アラブや台湾でも大変に人気があります。

夢の倶楽
 酒田の歴史と文化を伝える「華の館」と、お土産が買える「幸の館」が入っています。「華の館」には酒田の歴史が展示されています。ここに展示されている亀傘鉾は、本間三代光丘が京都に特注したものです。亀傘鉾の名前の由来は、酒田は亀と大変関係があることからきています。亀傘鉾は、畳三枚ほどの広さです。上には傘福が下げられ、龍神、蔵の鍵、一番前に烏帽子を被った猿がいます。酒田を守る日枝神社の守り神です。5月20日の酒田の例祭で、昔はこの亀傘鉾を皆で引いて住人の幸せと悪業を払うお祈りをしました。本間家の寄進は沢山あります。浄福寺の唐門も有名で、京都から職人を呼び寄せ、作らせました。

*聞き取り協力 平成25年6月13日 酒田市観光ガイド協会*

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