湊町さかた観光ガイドテキストブック 「ぐるっと、酒田 まちしるべ」

第一章 商人町界隈
7.商人町界隈の神社仏閣

愛宕神社(十王堂町)
 酒田は火災の多い町でした。愛宕神社は、火伏せ・防火の霊験あらたかなことから勧請されたようです。ご神体の勝軍地蔵は奈良朝の名僧行基菩薩の一刀三拝の作とされています。源平合戦の時、近江国三井寺西谷の焼けた寺の中から白馬に乗った大将軍が光をなして飛び立つのを見て、その後をつけていくと、森の中に勝軍地蔵があったとされます。軍の神でもあることから酒井家歴代の藩主から尊崇をうけ、酒田大火で焼失する前の拝殿扉には、酒井家の紋が刻まれていました。永正15年、難破しかかった船乗り達が造営寄進をしています。昭和51年の酒田大火後、昭和54年に再建されました。

天満宮(上内匠町)
 天正時代に天童海が越後から保持し、今の大町付近にてお祀りしていたようです。最上川の氾濫による水害がひどく、慶長の頃、坂の上と呼ばれる梅の古木があった地に移転しました。天満宮は学問の神様菅原道真を祀る京都北野天満宮の御分霊を頂く社で、道真の神徳を求め参詣で賑わいました。この鐘楼は名工国松吉右エ門の作で、酒田市指定文化財です。町奉行鱸角兵エの創意により、安永6年に町奉行が鐘つき料を僧侶に支払い時鐘を撞きました。お箸塚や草木塔など珍しいものがあります。境内北側には、宝篋印陀羅仏を納めた塔を二つ並べて浮彫し宝篋印塔半肉双塔があります。室町時代の作といわれ、海船により綿積石の一つとして運ばれてきたといわれています。 昭和51年酒田大火で焼失後、昭和54年に再建されました。

薬師神社 (桶屋町)
 ご本尊は、高倉院養和年中に由良村海底から漁師の網で上げられ、徳尼公の庵で念守り本尊として信仰されたといいます。建保5年に徳尼公の遺言により、高野浜に湊薬師として祀られました。その後、上の山の薬師神社に奉納されたそうです。社標の隣の古い欅の大木は、昭和51年の酒田大火の時には欅の空洞に飛び火が入り、20m位の火柱が立ちました。懸命の消火活動により、欅も社殿も近くの民家も類焼を免れました。今も桶屋町のシンボルとして、このご神木は親しまれています。

三居稲荷神社(山居倉庫)
 最上氏時代、家臣の栗林新右ヱ門が栗林家で信仰していた神霊を祀ったという話と、ここに住み百姓となった小沢重内に狐が現れ、社を建てるように頼んだともいわれ、正一位山居稲荷大明神が祀られていました。その後、明治26年に酒井家が山居倉庫を設立した時に、酒井家の江戸藩にあった太郎稲荷と出町の柿崎孫兵エの屋敷神であった禎祥稲荷を合祀し三居稲荷神社としました。山居倉庫の一角で、常に倉庫を守っている神社です。
※「第一章 6.山居倉庫・庄内米歴史資料館・酒田夢の倶楽」にも三居稲荷神社の説明があります。

竜徳稲荷神社・船玉大明神(稲荷小路)
 この稲荷神社は竜徳稲荷といいます。この辺りに住んでいた数人の猟師が、大漁満足と海上安全を祈願し、立谷沢の稲荷神社から神霊を勧請したと伝えられています。霊験あらたかなことから参詣者が多く、神社を中心に町が発展しました。それで神社名をとって稲荷小路としました。社殿は文政年間建立。桁に三匹の亀が彫られています。酒田に大亀が上がり、亀ヶ崎城になったという話があります。お城も近いし、縁起もいいので彫られたのでしょうか。稲荷神社の狐は神のお使いです。左の狐が巻物、右が宝珠という財宝をくわえている所が多いです。財宝の入った蔵の鍵を持っているところもあります。狐は子孫繁栄、五穀豊穣、商売繁盛、開運出世と何でも面倒見てくれます。酒田は個人で稲荷を祀っている家が多く、本当に稲荷神社が沢山あります。船玉大明神は船の守り神様と言われています。酒田に似つかわしい神様です。台座が船の形になってます。船大工が船を作るときに帆柱に四角な穴を開け、その中に神を納めました。酒田では船主が丑三つ時に白装束で誰からも気づかれないように、柱の下に女の毛髪、男女の人びな、さいころ、銭を納め、祭文を唱え船玉を祀りました。

線彫り地蔵菩薩(地蔵の湯)
 旅館の北西にコンクリートの祠があり、自然石に線彫りの地蔵さんを祀っています。京都の山伏だったという地蔵の湯の御先祖は、溺れ流れ付いた子供の霊を供養しようと、小さなお地蔵さんを祀りました。この地蔵は、いぼとりに効き目があったので「いぼとり地蔵」さんとも言われました。暫くして、ここに酒田一の清水が湧いたそうです。「水神大権現 寛政三年四月」と刻まれた水神碑、「とけてくる氷をむすぶ清水かな」と彫られてた句碑が残っています。この清水は山の氷が溶け流れてくる名水で、地蔵清水ともいわれたそうです。

十王堂(十王堂町)
 昭和51年の酒田大火で、辺りが焼土と化した中、たった一つ、ぽつんと残ったお堂です。昔、与惣右エ門というものが海辺で「与惣右エ門与惣右エ門」と名前を呼ぶ声を聞き、振り返るとえんま像が流れついていたということです。家に持ち帰りと、「お堂を建ててくれ、ここに建ててくれ」というのでお堂を建てたと言われています。お堂を中心に十王堂町が出来、それが訛って、浄土町とも言われていました。この十王堂は、えんま堂ともいわれます。ご本尊は大きいえんま様の腹の中に入っている外から見えない小さいえんま様です。十王は冥土で裁きをする十尊です。えんま様はその中の一尊です。三途の川で、六文銭を持たない亡者の衣服を剥ぎ取る奪衣婆像も安置されています。以前は少し離れた場所にありましたが、大火後にゴロで移動し移築しました。土蔵作りの為、焼けなかったのかもしれません。
 十王堂のお祭りが、正月とお盆にあります。いろいろな掛け軸を出しますが、脆くなっていて全部を掛けることができなくなりました。手作りの船は帆の陰に男女が乗っています。この帆に和尚さんが船の名前を書き、ロウソクを立て、町内会の人が頭の上に乗せ、和尚さんの鐘の音と共に町内を夜回ります。金魚2匹とご飯と茄子の切った物を供えます。
 ご飯がどんぶりに山の形に盛られています。実は中に大根が入っています。後で、赤や黄色の紙を竹に結んで梵天にしたものを、和尚さんがご飯に刺すためです。茄子には、榊のような葉っぱに水をつけて垂らします。外にある笹竹は、南無阿弥陀仏と書いてある青と黄と赤の札を下げ、子供達が町内を回り、戻ってくるとお供えの物を貰います。最後に和尚さんがお経を唱えて、ここで船やいろんなものを焼いて終わります。昔は新井田川に船で行って流していました。

福一満虚空蔵(上袋小路)
 酒井家入部と共に酒田に入った酒田町奉行所同心村井伴治の屋敷がありました。敷地内の土中より、虚空蔵菩薩石像が発見され、それを自宅内にお祀りしていました。村井家は移転しましたが、上袋小路の人達の篤い信仰により、この地に残され、今も大切に祀られています。

*聞き取り協力 平成25年8月6日 酒田観光ガイド協会・ 酒田市立資料館調査員・ 自治会*

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