湊町さかた観光ガイドテキストブック 「ぐるっと、酒田 まちしるべ」

第二章 城下町界隈
1.亀ヶ崎城の歴史

東禅寺城の成り立ち
 今の四ツ興野辺りに、山伏達を中心とする真言宗の大浄山東禅寺と称するお寺があったとされます。何か事が起こると寺に立て籠もり戦いました。それで、寺を東禅寺城、長を東禅寺氏(酒田氏)と呼ぶようになりました。戦いを経て、遊佐氏が城主となりますが、白髭水の大洪水(1466年)で城は崩壊したとされ、現酒田東高校の地に移転(1478年)しました。

上杉氏の支配
 その後、東禅寺城は武藤氏の支配を経て、豊臣秀吉の天下統一により上杉景勝の支配に入ります。1591年から1599年にかけて、上杉氏は東禅寺城の堀の整備と新田開発を行いました。初代城主である甘粕備後守は大町溝の基礎を作りました。この大町溝事業は1852年の完成まで引き継がれました。次の城主である志田修理亮と家臣の川村兵蔵は、最上川から水を引き、鵜渡川原の外部を幅14mの堀と土手でぐるりと囲みました。その堀は新井田川も越えて旧元米屋町から堀端、旧肴町、町奉行所を通って新井田川に流れる総曲輪となりました。東禅寺城は最上川と新井田川を外濠とし、平城の為に遠くからも目立たず、難攻不落の巴城といわれました。本丸・二の丸・三の丸の総坪数は約2万1千坪(東京ドームおおよそ2個分)でした。

最上氏の支配
 慶長6(1601)年、関ヶ原合戦で徳川軍に付き、勢いに乗った最上氏は上杉氏配下の東禅寺城を攻め、城を手にいれました。最上氏は西の方から火を放ち、酒田は焼き尽くされました。一番初めの酒田大火と言われています。逃げ惑う上杉軍は、我先にと亀ヶ崎城を目指しました。それで新井田橋が崩れて多くの人が落下したと言われています。最上氏家臣の志村伊豆守光安は三万石の城主となり、焼け跡を整理し町を割り直したとされます。新道を開いたり、舟着場を設けたり、湊の基礎を作りました。鵜渡川原に家臣を住まわせ、出身地から最上町、戸沢町、長泥町とし、町名は現在も残っています。酒田町組と東禅寺分の行き来ができるように、突抜を始めとして外堀を埋めて交通の便を図りました。1603年、最上義光は大浜に大亀があがったことを喜び東禅寺城を亀ヶ崎城と名を変えました。

酒井家の支配
 元和8(1622)年、最上家は義光死後の内紛で、領地は三分割されました。庄内14万石の領主には、徳川四天王のひとつ酒井家の血筋である酒井忠勝が信州松代より転封され、鶴岡を中心に庄内藩が誕生しました。酒井氏が庄内に入ると、亀ヶ崎城は鶴ヶ岡城の支城となり、城下町は縮小され、堀を埋め酒田町組との境は取り払われていきました。

戊辰戦争後
 戊辰戦争で庄内藩は旧幕府軍として戦いました。酒田町兵も386名が出陣し、最後まで戦いました。しかし、明治元年9月23日に政府軍に謝罪降伏をしました。9月29日、政府軍は亀ヶ崎城内に民政局と軍務官出張所をおき、庄内藩を軍政下に組み入れました。明治4年に第二次酒田県となり県庁を旧亀ヶ崎城内におき、明治9年に合併で山形県が出来ると、城は解体されました。大正9年、県立酒田中学校(酒田東高校)が旧亀ヶ崎城跡に創設され、現在に至ります。

*聞き取り協力 平成25年12月17日  酒田市史編集委員・他*

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