湊町さかた観光ガイドテキストブック 「ぐるっと、酒田 まちしるべ」

第二章 城下町界隈
2.「亀ヶ崎城跡」 町歩き

亀ヶ崎城跡説明文
酒田東高校の正面にあります。

土塁跡
 現在、亀ヶ崎城跡を目で確認できるのは、かつての二之丸西側と北側にL字型に残る土塁だけです。土塁には欅172本、松53本、桜19本、杉26本、えのき11本、雑木11本が植樹されていたとする記録があります。

御本丸の位置
 酒田東高校のグランド側にあったとされます。亀ヶ崎城は平城でした。

二之丸の位置
 酒田東高校の校舎側にあったとされます。城代屋敷もありました。

三之丸の位置
 亀城小学校に標柱があります。敵に攻撃されないように、堀を造り城を守りました。三之丸の敷地は大変広いものでした。現存する絵地図に、詳しく堀の位置は描かれていません。敵に知られ、堀を攻撃されないようにしていました。


 前田製管東北側。上杉氏時代、甘粕備後守は大町溝の基礎を作り、志田義秀の家臣川村兵蔵は東禅寺城の外堀を作りました。この用水路と水汲門跡の水門が外堀の名残のようです。


 旧酒田商業高校。欅の大木が当時の名残のようです。

蔵へ続く道
 旧商業高校前が蔵前で、緩やかに曲がった道沿いに堀が巡らされていたようです。

酒田十景の亀ヶ崎城と大手門
 この橋の擬宝珠が酒田市立資料館にあります。

三の丸南側の搦手門
 酒田市吉田の普門山円通寺の山門は、かつて亀ヶ崎城の城壁に偉容を誇った由緒ある搦手門といわれています。明治の初め、檀信徒が寄進したもので、明治41年に瓦屋根に改修しました。本物ならば、亀ヶ崎城の建造物として現存する唯一のものです。

亀ヶ崎城丸之御橋跡
 丸之御橋は、亀ヶ崎城への東の入り口でした。慶長4(1599)年、川村兵蔵は最上川から水を引き、鵜渡川原の外部を幅14mの堀と土手で囲み、松山や鶴岡に通じる橋として建設しました。城への入り口は丸之御橋と新井田橋の二つだけで、酒井藩主を出迎える際は、丸之御橋前の松原に城代、三十六人衆が並びました。明治14年の明治天皇巡幸も、この橋を渡られました。

酒田町奉行所
 元和8(1622)年、酒井忠勝公が松代から入部して庄内藩当主となってから明治2年まで、246年間、町政の役所として機能していました。今の市役所と警察を合わせた、町の治安を守り、行政を司るための所でした。正徳5年に小林瀬左衛門が町奉行所の建築を手がけました。酒田の町は、鶴ヶ岡城の支城である亀ヶ崎城があり、城代が行政を行い、その指令を受ける町奉行、その下に三十六人衆がいて町政を行う仕組みになっていました。平成5年に整備されるまで、ここは草原でしたが、正徳5年の絵図を参考に復元がされました。亀ヶ崎城と酒田町組の境にあり、正面は城に向いていました。敷地は現在の5倍位、1000㎡程の大きさがありました。現在出入りしている冠木門は、当時の奉行所裏で、観光用のものです。南は新井田川に接触して、土塁と堀で囲まれていました。大浜に船見張小屋を建て、不審者がいると湊まで、はしけ船で向かい、キリシタンや密輸を取り締まったそうです。宝暦10(1760)年に祀られた開運稲荷があります。

鵜渡川原村役場跡
 明治15年、鳴鶴学校は亀ヶ崎城内から移築され、翌年に亀城学校と名前を変えました。明治22年に、鵜渡川原、大町、大宮、遊摺部の合同役場が、今の亀城小学校に建設され、昭和4年に酒田市に合併しました。亀城小学校校歌は、三島通庸の作詞、奥好義の作曲です。

上日枝神社
 上杉氏時代に甘粕備後守が東禅寺城内に分祀し、城内日吉社となりました。最上氏時代に内町組、米屋町組の願いで、志村伊豆守は東禅寺分町家の鎮守として山王堂町東の松原地に移しました。
※(城下町の神社仏閣に詳しくあります)

亀ヶ崎八幡神社
 東禅寺八幡神社と称し、古い東禅寺城時代の建久2(1191)年に武藤出羽守が勧請し庄内の総鎮守としました。城の支配者が何度も変わったり、火事にあったりしますが、亀ヶ崎城二之丸の八幡様として変わることのない信仰に守られてきました。廃城の後、酒田東高校の敷地内にありましたが、昭和35年、現在地に遷宮しました。
※(城下町の神社仏閣に詳しくあります)

曹溪山 青原寺
 志村伊豆守により最上の長谷堂から移転しました。志村伊豆守の菩提寺です。本堂の裏にご夫妻のお墓があります。甲冑も展示しています。
※(城下町の神社仏閣に詳しくあります)

慶光山 観音寺
 志村伊豆守が東禅寺城城主となり、慶長6(1601)年、祈願佛として、十一面観音を最上の長谷堂より守護し、城内二の丸北角に堂宇を建立し安置しました。
※(城下町の神社仏閣に詳しくあります)

*聞き取り協力 平成25年12月17日 酒田市史編集委員・自治会*

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