湊町さかた観光ガイドテキストブック 「ぐるっと、酒田 まちしるべ」

第二章 城下町界隈
3.「鷹町から天正寺町」 町歩き

鷹町稲荷神社
 宝永三年(1706)平田郡大町組浜畑分の土地を整備して新地としました。この正一位稲荷神社を鷹尾山金剛院と呼んだことから、鷹町というようになりました。この辺りは、鷹尾山稲荷の森ともいわれ、小高い丘でした。今も山の手という人がいます。鷹町稲荷神社は、多くの庚申塔に囲まれています。銀杏の巨木からも歴史を感じます。
 この神社からステーションホテルの裏を抜けて、木戸銭、相馬屋菓子舗の通りに出ます。一軒の歴史を感じさせるお宅がありました。この辺りは、昭和51年の大火で被害を受けていません。年代的に古い町ではありませんが、発見がありそうです。

旧筑後町
 標柱の上に半鐘が下がっています。元和8年酒井家入部の当初、ここに数軒の家がありました。しかし、風砂の為に殆どが転居しました。延宝6年、下蔵跡地に屋敷割りをし、鶴田口浜町(はまのまち)と称しました。貞享3年、川北三奉行斎藤筑後の宅地だったことから筑後町と改称しました。

筑後町の稲荷神社
 堀切稲荷と呼ばれ、寛文7(1667)年、下蔵の鎮守として堀切倉庫の独立と同時に創建されました。貞享3年に堀切、鶴田口、浜町一帯を筑後町としました。以来、筑後町稲荷となりました。

伊勢両宮社
 寛文年間に伊勢から勧請しました。浜田村が出来たときに産土神として祀ったと記念碑に残されています。この神社の彫り物は荒波の岩礁に注連縄です。伊勢神宮の二見興玉神社夫婦岩を模しているのでしょうか。酒田では始めて見ました。この境内の松は何故か全て根元が曲がって伸びています。他の太さの木は真っ直ぐに伸びているのに、松だけが寝て伸びています。風砂の影響でしょうか?明治27年の酒田震災の影響でしょうか?

堀切小路(入船小路)
 寛文年間、酒井家がここに米蔵を建て、新井田川から堀を切って舟で米を運びました。それで堀切と呼ばれてました。暗く細い小路は、昼でも、ひんやりしていて、後ろを振り返りたくなります。

堀切の「もろみ地蔵」
 「昔、夕方になると筑後町の酒屋に醪を買いにくるお坊さんがいました。見知らぬお坊さんなので不審に思って主人が後をつけると、この小路に入り地蔵堂の前で姿が見えなくなりました。あくる朝早く地蔵堂に行ってみると、お地蔵さんが、口の回りに醪をつけ、すました顔で立っていました。酒屋の主人が夕方に醪をお供えするようになると、醪を買いにくることはなくなり,酒屋さんは大繁盛しました」という話しが残っています。

小島小一郎翁顕功碑
 農民運動の父といわれた人です。小島家は、大地主藤井家の支配人を代々してきました。しかし、小一郎は小作人の窮状に同情的となっていき、農民運動に情熱を傾けるようになります。日本一の大地主、本間家が真の敵であるとし運動を展開しました。大正13年には飽海郡連合耕作人連盟を作り、地主側と対決しました。日本社会党結成大会にも庄内の代表として出席し、終生地域の農民解放運動に活躍しました。

旧近江町
 上日枝神社界隈の町です。天和2年、最上氏時代に川北三奉行寺内近江の宅地跡だったことから、近江町と呼ばれました。

上日枝神社
 寛永13年(1636)、亀ヶ崎城より現在地に移されました。通称「上の山王さん」として広く市民に親しまれています。この社の松の木も、根元が倒れ伸びています。

平野屋ローソク
 享保年間(1716~1735)、鶴岡の絵ろうそくは、皆川重兵衛が作ったもので、大変有名でした。庄内藩から将軍への献上品である絵ろうそくが、途中で破損し、江戸の職人では修理できず、重兵衛が参上し修復して完成させました。将軍家斉は、それを日本一と称しました。高い名声を得ましたが、現在は手描き製造は庄内に数軒のみです。花紋燭といい御所車や蓮華、四季の花模様を描くのが特徴です。元禄9(1696)年創業の平野屋ローソクでは、5代目の平野肇氏がろうそく作りと絵付け技術を受け継いでいます。平野氏が考案した、丸型で水に浮かぶフラワーボールは人気があります。

斎留商店
 酒田みやげの芭蕉せんべいを製造している斎留商店です。おばけあられとも云われ、自分で金網に入れて焼きます。

清亀園
 明治24年、伊藤家の別邸として築造されました。山田挿遊の造園で、庭園内には池、約250本の庭木、九基の石灯籠、庭石が見事に配置されています。昭和54年に酒田市の所有となり、由緒ある名庭を往事の姿に復活しました。

鶏足山 天正寺
 三十三観音が境内に建立されています。千石船型准胝観音像は大変珍しいものです。
※「第五章 10.鶏足山 天正寺」に詳しくあります。

*聞き取り協力 平成25年12月17日 酒田市史編集委員・自治会*

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