湊町さかた観光ガイドテキストブック 「ぐるっと、酒田 まちしるべ」

第二章 城下町界隈
4.城下町界隈の神社仏閣

1.亀ヶ崎城ゆかりの寺社
○亀ヶ崎八幡神社
歴史 四ツ興野に東禅寺城があった建久2(1191)年頃、武藤出羽守が勧請し庄内の総鎮守とし、東禅寺八幡神社と称しました。城の支配者が何度も変わったり、火事にあったりしますが、亀ヶ崎城二之丸の八幡様として変わることのない信仰に守られてきました。廃城の後、酒田東高校となった敷地に残っていましたが、昭和35年、現在地に遷宮しました。

大亀 1603年の春、酒田の湊に身の丈7尺の大亀が這い上がりました。それを最上義光公が大いに喜ばれ、御代万歳の世を鶴亀に込めて、鶴岡の大宝寺城を鶴ケ岡城、酒田の東禅寺城を亀ヶ崎城に改め、城の守護神である亀ヶ崎八幡神社に願いを託したと言われています。

江戸時代の新井田橋の橋桁 明治23年5月にめがね橋が新井田川に竣工します。それ以前の木橋の橋の材料が、建築の一部に使われています。極めて貴重なものです。新井田橋は酒田町と亀ヶ崎城をつなぐ唯一の橋でした。室町時代から架けられていたと言われています。

明治時代の新井田川めがね橋の石 明治23年5月20日、新井田川に当地方初めての永久橋として、三島県令が招いたドイツ人技師の設計による三円アーチ橋が架けられました。河の底まで円がついている当時としては珍しい橋でした。その石組みの一部材料です。めがね橋として親しまれました。

森藤右衛門顕彰碑 西の板垣、東の森と称され自由民権運動の先頭で活躍しました。明治新政府になってから、減税を求める農民騒動が起き、1874年には酒田県の非政に対して、農民は納め過ぎた年貢を返してもらえれば「曲げわっぱ」一杯分のお金になるということで、庄内一円に返還運動が広がっていきました。これが「わっぱ騒動」で、森藤右衛門が指導していました。運動の激化で三島通庸が酒田県の鎮圧にきますが、収めきれず、農民側が勝訴しました。これは全国でも稀なことでした。その後、森は県下最初の政治結社「尽性社」、「両羽新報」の創刊と活躍し、県会議員にも当選しました。この碑は、公正な政治実現に身命を賭して闘った功績を後世に伝えようと平成24年に建立されました。

○上日枝神社 貞観13年(871)鳥海山が大爆発し、怒りを静めるために近江国坂本鎮座山王宮(日吉大社)を勧請し、海運にて宮野浦へ鎮座しました。その後、上杉氏時代に甘粕備後守が東禅寺城内に分祀し、城内日吉社となりました。最上氏時代、志村伊豆守は内町組、米屋町組の願いを聞き、東禅寺分町家の鎮守として山王堂町東の松原地に移しました。しかし、1663年、低地の為、現在の近江町へ移建されました。現社殿の本殿は天保12年(1841)、拝殿は明治18年(1885)に再建され、通称「上の山王さん」として広く市民に親しまれています。狛犬は出雲型です。

○曹溪山 青原寺 志村伊豆守により最上の長谷堂から移転しました。志村伊豆守の菩提寺で、本堂の裏にご夫妻のお墓があり、その隣に碑があります。宝物殿にある仙陀龍神の幅物は、朝鮮出兵の際、明から日本へ渡り、豊臣秀吉から最上義光へ、志村伊豆守へと賜ったものだそうです。古来から龍神様としてあがめられ、日照りが続くと大祈願祭を催しました。
 この鎧兜は、青原寺に保存されている志村伊豆守光安の鎧兜です。志村伊豆守光安は酒田の町並を造営したり、新興屋までの新道を開き舟着場を設けるなど10年に渡って城主として尽力しました。青原寺には鵜渡川原に住んでいた足軽剣士の墓群があります。

○慶光山 観音寺(三十三観音札所) 志村伊豆守が東禅寺城城主となり、慶長6(1601)年、祈願佛として、十一面観音を最上の長谷堂より守護し、城内二の丸北角に堂宇を建立し安置しました。同時に祈願所である真言宗智山派慶光山観音寺も鵜渡川原に一寺を建立し、十一面観音の別当として奉仕しました。この十一面観音は曹洞宗開山の道元禅師の一刀三礼(いっとうさんらい)の御作と言われています。大変霊験あらたかな仏様で豊臣秀吉から最上義光へ、そして亀ヶ崎城主の志村伊豆守に贈られたとされます。60年に一回のご開帳があります。当國三十三観音札所として、崇敬を集めていましたが、巡礼に紛れて亀ヶ崎城内に隠密が入るのを防ぐために、この札所を閉鎖して、今町の光國寺に移したとされます。酒井氏の時代になり、十一面観音を亀ヶ崎城内より現在地に移しました。西之宮は古来より航海安全とえびす神として祀られてきました。鵜渡川原は亀ヶ崎城を守備する足軽武士達が住む町でしたが、最上川の近くにあり、生計の一助として7割近い人が漁業に携わっていました。社頭に大宮の原田さんが建立した八つ目供養塔があります。この観音堂は現在も鵜渡川原地区の信仰の中心です。 ※参考文献『十一面観音堂由緒書』

2.鵜渡川原村の寺社
豊受神社
 元和8年2月に庄内川北三奉行寺内近江守、斎藤筑後守、高橋伊賀守等の祈願により、伊勢から神木を迎え、旧片町に造営鎮座しました。しかし、新井田川の米穀倉庫に近かった為、享保13年に火難を避けると共に、鵜渡川原村の総鎮守として現在地に奉遷しました。全村の産土神として崇められ、農業、養蚕、畜産等に御恵がありました。

3.浜町、新地の寺社
○筑後町の稲荷神社
 堀切稲荷といい、堀切にありました。寛文7年(1667)、堀切倉庫の独立と同時に、下蔵の鎮守として創建されました。貞享3年に堀切、鶴田口、浜町一帯を筑後町としました。それ以来は、筑後町稲荷と呼ばれました。

○筑後町の伊勢両宮社(神明神社) 寛文年間、伊勢から勧請しました。浜田村が出来たときに産土神として祀ったと記念碑に残されています。この神社の彫り物は荒波の岩礁に注連縄です。伊勢神宮の二見興玉神社夫婦岩を模しているのでしょうか。酒田では始めて見ました。この境内の松は何故か全て根元が曲がって伸びています。他の太さの木は真っ直ぐに伸びているのに、松だけが寝て伸びています。(風砂の為か、明治27年の酒田震災の影響か)新井田川が暴れて大変だったという開墾の碑があります。藤井家の篤い庇護がありました。

○堀切のもろみ地蔵 堀切の小路にお地蔵さんが二体祀られてあります。一体は「もろみ地蔵」。昔、毎日夕方になると筑後町の酒屋に醪を買いにくるお坊さんがいました。見知らぬお坊さんなので不審に思って主人が後をつけると、この小路に入り地蔵堂の前で姿が見えなくなりました。あくる朝早く地蔵堂に行ってみると、お地蔵さんの口の回りに醪がついていました。その後、酒屋の主人が夕方に醪をお供えするようになると、醪を買いにくることはなくなり、酒屋さんは大繁盛したという伝説が残っています。蓮台には享保11年(1726)と彫られています。隣の聖観音には安永4年(1775)と彫られています。

○鷹町稲荷神社 戦国時代以前、信濃国の浪人で齋藤外記(げき)と淡路の二人が神霊を奉じて祀ったとされています。勧請と共に鷹町、外野町を開き、新地両町の稲荷大明神としました。亀ヶ崎城主志村伊豆守より正一位を賜っています。昔は、この辺りを鷹尾山稲荷の森といって一つの小高い丘になっていたそうです。酒田から吹浦に通行する人はここを一つの目標にしたといわれています。今も、この辺りを山の手という人もいます。この神社が昔鷹尾山金剛院と言われていたことから鷹町の町名がつきました。庚申塔がとても多く、境内や外側にもあります。とても大きな銀杏の木があります。長い年月を感じさせます。

*聞き取り協力 平成25年12月17日 酒田市史編集委員・八雲神社宮司・自治会・資料抜粋*

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