湊町さかた観光ガイドテキストブック 「ぐるっと、酒田 まちしるべ」

第三章 台町界隈
2.「高野浜から船場町」町歩き(小路を中心として)

高野浜
 新町は酒田甚句に歌われた高野浜です。北前船で大変繁盛した花街です。船頭衆から沢山のお金が、この町に落とされました。2.8mの高さがあった酒田遊廓の大門の一つは、見返り小路を下りたところにありました。ご年配の方は、この門を覚えている人もいます。

琴平神社
 大浜に下る坂を歩くと、右に琴平神社があります。江戸時代からお祀りしていましたが、明治27年以降、新町遊廓が繁盛するにつれ、船頭衆も多く訪れ、更に信仰を集めました。以前はもっと大きかったようです。中に傘福も下げられています。

日和山と新町への三叉路
 左へ曲がっての細い小路は、日和山と新町への三叉路に繋がりました。

新町(高野浜)へ
 新町へ下る坂は、見晴らしがよく、気持ちがいい石段です。昔、ここに遊郭があり、花街の歴史があったことなど想像できません。面影もない町から、無理に残骸を引っ張る理由もありませんが、海があって、湊があって、繁栄があって、花街があった事実を、歪めること無く伝えるのも、大切なことではないかと思います。

新町上通り
 新町上通りには、「海望樓」という看板が残る旅館、昔のままと言われる松山旅館、ベンガラ風の古く大きい建物が花街の面影を残しています。高野浜は「音に聞く高野の浜の賑々しさ 水夫(カコ)も親父も袖ぬらすらん」と歌われました。現在の原宅から北へ2、3軒隣にあったという本五樓には、若山牧水が大正6年8月に2泊したといわれています。「砂山の陰に早ゃなりぬ何やらむ別れの惜しき酒田の港」と詠いました。正岡子規は、「はて知らずの記」で「名物は婦女の肌理細かなる處にありといふ」と記してします。この文章からも高野浜の雰囲気は味わえます。
 新町ト一屋から北へ向かう袋小路は、三味線小路と呼ばれていました。この町には、三味線屋から髪結い、風呂屋、写真屋、下駄屋、質屋、薬屋、駄菓子屋、蕎麦屋、桶屋、魚屋、米屋、仕立て屋、布団屋、花札屋、医者、車屋、唄や踊りのお師匠さんの家があり、この町の中から出ることなく生活ができました。明治27年の酒田震災で、今町船場町は大打撃を受け、貸し座敷は全て新町高野浜に移転させられました。台町には料亭ができて、新町は貸し座敷業を独占しました。

朝顔小路
 新町の上通りと下通りを繫ぐ小路を「朝顔小路」と呼んでいました。由来は、小路南側の真ん中辺りに、来光堂という写真屋さんがあり、そのご主人が朝顔が好きで、夏にはいつも小路に面して朝顔を咲かせていました。そこから名付けられました。来光堂は場所柄芸娼妓の写真を撮影して繁盛していたようです。その場所は駐車場になりました。朝顔小路で、明治時代から営んでいた菓子店さんは閉店しましたが、お宅はそのまま残っています。はかない朝顔は、かつての町に似合いの花だったような気がします。

新町下通り「俵屋」
 朝顔小路を抜けると、新町下通りになります。右に曲がると、「俵屋」と呼ばれていた貸し座敷業の家があります。明治後期の概念図、大正期の唄に名前があります。持ち主の血筋は途絶え、お願いされた97歳の方が管理所有しています。空白の看板、三味線掛け、隠し部屋、広い階段、幾つもの物置、中庭、石灯籠、離れ茶室など、長い奥行きの家です。図面も見せて頂きました。新町自治会の方々は、残されたものを守り、大切に保存していきたいと考えています。

斎藤染物工場
 大漁旗・のれん・半天の染め物が並べられる、酒田市に一軒だけ残っている手染めの工場です。昔は沢山ありましたが、今はこちら一軒だけになりました。ピアノシリーズなど新作に挑戦しています。

新町稲荷神社
 左折すると右手に新町稲荷神社が見えてきます。旧酒田のお稲荷さんの元祖と云われています。弘法大師の腰掛け石があります。弘仁年間、弘法大師が東北地方にお出でになった時に船の出入りする港を眺め、淡く光る海岸の当たりを高野浜と名付けられた。ここが、高野浜発祥の地で、この石はその時に座ったものといわれています。この辺りの風景が酒田十景に描かれています。高野浜の芸娼妓に信仰された稲荷神社です。 (台町神社仏閣に詳しくあります)
 新町下通りを戻り、日和山に上がります。

銃弾が残る建物
 大きなお屋敷と地下1階地上4階建て建物があります。こちらは割烹の前はゴム製品を製造して売っていました。4階建ての建物はゴムの倉庫とおじいさんの釣りの趣味の為に建てられました。酒田大空襲の爆撃が残っています。母屋は松山から移築した立派なものです。お庭もすばらしいです。この辺にもう一つの遊廓の大門があったらしいです。 (台町界隈に詳しくあります)

割烹よしのや
 佐藤泰太郎棟梁が建てた部分がある建物です。日和山公園を借景としての桜の季節の眺めはすばらしく、早くから予約があるそうです。
 日和山公園の皇大神社から出町に出ます。

鶴岡街道
 出町から六軒小路までの道を鶴岡街道といいました。船場町ができると共に栄え、鶴岡から赤川を下ってくる人で賑わいました。北前船の舟人もここを通って酒田入りました。突き当たった秋田町は旅籠町で大変賑わいました。
 出町を下れば神明坂があります。

神明坂
 文化14(1817)年本間光道は、市街と港湾を結ぶ近道として、船からの荷物を背負って運ぶ丁持ちの苦労を和らげるために、湊から皇大神社へ続く坂道を作りました。摩耗の様子からも、湊で下ろされた荷物を大八車や荷車に乗せたり、背負ったりして、この坂をのぼった様子が偲ばれます。この坂は笏谷石が多く使われていました。海運で繁栄していた酒田の名残です。大正の頃はここにビアホールがあり、神明坂はビアホール坂といわれたこともあります。神明坂を左に折れれば芭蕉坂があり、上れば皇大神社があります。 (第四章 1.日和山公園と史跡 笏谷石が使われた神明坂(出町)にも神明坂の説明があります)

芭蕉が踏み出した地
 芭蕉坂を下りて船場町へ行きます。芭蕉坂は俳人芭蕉と曾良に因んで名付けられました。この酒田で芭蕉は始めて日本海を見ました。酒田についた芭蕉は日和山公園下の船着き場で船を下り、酒田の第一歩を踏み出しました。その場所は、はっきりしません。この庚申碑の当たりから芭蕉坂に向かったのかもしれません。想像すると楽しいです。

船場町
 明暦の地図には、まだ最上川の流れの底にありました。その後、河流の変化で地面ができ猟師町下河原と呼ばれ、文化文政年間には船着場、問屋街として本町をしのぐ勢いになりました。それと共に芸娼妓も許可され大変賑わいました。酒田甚句の「今町 船場町 高野浜 毎晩お客はどんどんしゃんしゃん 酒田はよい港 繁昌じゃおまへんか」と唄われています。明治27年の酒田大震災で被害を受け、寂しい町へ一変しました。

秋葉神社(船場町)
 寛文年中に遠州秋葉山から勧請したとされ、元々は日和山にありました。焼失後、再建され、明治27年の震災で焼失し、再建。明治36年に船場町に移転し、戦後現在の地に移築されました。酒田の秋葉神社では、一番古いと云われています。

あらき米屋さんの通り
 この通りから、数学者の小倉金之助が生まれました。小倉金之助は、理学博士で国際的な数学者です。下台町出身の伊藤吉之助とは、同じ明治18年生まれで、中学校も同じで、東大も同じという間柄でした。
 大正3年に建てられたあらき米屋さんは、酒田の町屋の特徴が残ります。寄棟、妻入、背面二階付、6間半、鉤土間2列型で、タブの木が植えてあります。映画のロケ地にもなりました。

池田小路
 港から船場町に通じる小路をいいます。この小路の名前の由来は、池田家の屋敷が多かったことからです。当時、港で働く人達は、この通りにある井戸でのどを潤したり、体を洗って家路に向かったと書かれています。小路の中程にある井戸だったのでしょうか。

*聞き取り協力 酒田市観光ガイド協会・自治会・資料抜粋*

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