湊町さかた観光ガイドテキストブック 「ぐるっと、酒田 まちしるべ」

第三章 台町界隈
4.山王くらぶ
 平成17年、元の持ち主の方から、酒田市でここを頂きました。どう活用しようかと大変悩みましたが、昔の酒田の雰囲気を味わって頂けるような展示施設にしようということになりました。建物の損傷がひどく、保存改修工事を経て、平成20年に開館しました。

建物の特徴
 「山王くらぶ」は、明治28年頃に建てられた旧料亭「宇八樓」です。外から見上げると、屋根の形が少し違う事に気が付きます。真ん中当たりで継いであります。後ろの方は、昭和初期の一部改修時にくっつけたものと考えられています。昭和初期は日本建築の爛熟期とされ、江戸初期の数寄屋建築や和洋建築等の要素を取り込み、最高の頂点に達した時期でした。この山王くらぶは、多くの建物が戦災で失われた中、お金をかけ趣味を生かした酒田の普請道楽を如実に感じることが出来る建物と言われています。

棟梁
 この建物は、名棟梁といわれた佐藤泰太郎さんが作りました。平成15年、国登録有形文化財に登録されました。佐藤さんが作った旧酒田灯台、旧相馬屋、山王くらぶは、登録文化財です。新町の坂を下った所にある「よしのや」さんは、文化財ではありませんが、内蔵があり趣味趣向を凝らした建築です。

入り口ホール
 普請道楽の数々を説明していきます。入り口ホールの飾り柱は檜を使っています。檜というと真っ直ぐな柾目の材を思い起こしますが、普段は枝打ちしてしまう瘤を、そのまま生かした飾り柱になっています。この飾り棚は、あまり目立ちませんが、よく見ると欅の一枚板です。これだけの一枚板は、かなり高額なものです。この桟は、手前に傾斜してます。これは「塵落としの桟」と言われ、なるべく埃が貯まらないように工夫がされています。床(ゆか)は組木になっていて、明るいモダンな感じがします。
 旧山王くらぶの看板は佐高茜舟(せんしゅう)さんの文字を彫ったものです。佐高茜舟さんは、佐高信さんのお父さんです。息子さん達がお出でになった時、「茜舟」の文字を見つけて(看板の左側面)喜ばれたそうです。

入り口正面の板絵
 この絵は聴泉(ちょうせん)が描きました。ここで働いていた人が、昭和初期の改築の際に描いていたのを見ています。これは秋田杉の柾目の板絵で、柾目の間隔が2ミリから3ミリ位で一番柾目の美しい材です。獅子とバナナの花の絵は、入ってすぐにあります。

帳場
 女将さんが座り、色々な仕事をしていた部屋です。目立った材は、梁に少し使われている黒柿です。黒柿は非常に珍しいもので、大物の真っ黒い黒柿は、なかなかありません。この装置は、袋に入った三味線の棹を掛ける三味線掛けではないかと言うことです。はっきりはわかりませんが、料亭には、お家の抱えているお姐さん達がいました。ここにも住み込みで5,6人いたらしいです。そのお姐さん達が掛けたと考えるのも面白いです。

展示室
 酒田船ダンス、組木細工の高度な技など、酒田の木工細工は大変有名です。酒田には、沢山の材が豊富にありました。例えば、小樽の青山邸別邸の欅の材は全部酒田から運んだという逸話もあります。それから、確かな目を持つ買い手がいました。お金に糸目を付けない旦那衆の審美眼と豊かな材が、木工細工や普請道楽を支えていたといわれています。
 金蒔絵の最高級品の輪島塗の重箱は、頂いた時、真綿に包まれていました。下にあるのは重箱を上げるために、わざわざ作られた重台です。お家の格として大事に仕舞ってこられた大切な品です。酒田の商人の栄華を垣間見られる逸品です。
 本間光勇さんが考えた「光丘彫」は、本間光丘さんに因んだ彫り物です。光丘さんの植林事業により、明治時代に黒松の松林が完成しました。しかし、大正時代に入り、倒木も多く、この松を朽ち果てさせてしまうのは大変もったいない、何とか職業、商業振興に役立てられないかと光勇さんは考えました。しかし、あまりにも松が暴れる材で、細工するには難しく、一端なくなってしまいます。昭和60年代初頭、伝承者として菊地秀雄さんが復活させました。それが「酒田光丘彫」です。資料館にある大正から昭和初期の作品は、暴れる材をいなしながら、技の全てをかけ彫ったというのがわかる作品です。

喫茶室
 風呂や厨房があった所を区切って、売店や喫茶室に変えました。この長い喫茶室から中庭が眺められるようになっています。メインツリーは、「かえで」です。泉水もあったのですが、蚊が発生して周囲の家に迷惑をかけるというので、玉砂利にして枯山水風にしています。訪れる方は、50代60代のご夫婦連れやカップルの方が多いです。茶室とメインの庭を眺めながら、この喫茶室で一服して疲れを癒やして頂くように、コーヒーやお抹茶のセット等を用意しています。
 欅の一枚板の腰掛けの装置がある所は、昔、茶室待合だったのではないかと思われています。上の辺りを見て頂くと、ちょっと歪んでいるガラスがあります。それが当時の手漉きの硝子で、割ってしまうと変わりがないものです。
 建築家の方が「かわいい」と付けてくれた大正ロマン風の陶具では、「どこで買えるんですか」というお尋ねをよく頂きます。中は電球を使っています。省エネにはなりませんが、LEDでは味わいがないと考えています。
 非公開の地下室は、お皿などの什器や漬け物などが入っていましたが、カビや汚れがひどく、現在は強制排気を入れて乾くようにしてあります。中二階は、ご家族がお住まいでした。この階段を上がって遊びに来た事があると話している人がいます。

宝形造の茶室
 「竹久夢二画伯愛用の茶室」と銘があります。竹久夢二が「宇八」を気に入り、大正10年前後、この離れに逗留しました。画家でありデザイナーであり、今でいうアートデザイナーでした。当時は、風紀の乱れをおそれ、料亭に人を泊めてはいけないという決まりがありましたが、竹久夢二はパトロンに頼み込んで無理に逗留しました。この茶室から、帳場で着替えをする芸者さん達を覗いていたという話しもあり、自由に過ごしていたようです。
○湯田川温泉の写真 女性は旅館のお嬢さんで、おつねさんという方です。隣が夢二先生です。この鬚の方はパトロンの森さんで、右端の方もパトロンの富樫さんだということです。
○象潟トリップ ここに掲げられた絵は、1922年、「宇八」に逗留した時のものです。この髭の方は、写真に写る森さんです。森さんがステッキ片手に、「宇八」にやって来るところから始まります。「同行7人象潟行」は、象潟トリップ、スケッチ旅行に行った時のものです。『午前六時半、なかなか起きぬもんだの、先生だば』とあります。先生がこの部屋でむっくり起きたところを自分で描いています。その当時、芸者さん達はお風呂に入ってから支度をしていました。夢二先生は『早くあがれ。飯は食っても、着物はいらぬ』と言っています。ちょっと芸者さんを覗いている感じです。この象潟行きには、芸者の鈴葉さんも連れて行きました。鈴葉さんに列車の中で罰ゲームみたいに足でチリンチリンと鈴を鳴させています。鈴葉さんは可哀想です。『鈴葉の心配』とあります。森さんが鈴葉さんのショールを列車の窓から外に流したりしています。『鈴葉の下駄火事のこと』では、鈴葉さんの下駄をだるまストーブにくべたり、とんでもないことをしています。当時は蒸気機関車なので『鈴葉ススでお化粧のこと』ともあります。鈴葉さんは東京で芸者さんをしたことあり、東京弁がわかったようです。先生の通訳みたいな感じで重宝がられていました。森さんの愛人だった芸者の時子さんも描かれています。『まめでええのを』と締めくくりました。象潟トリップは、大変面白かったと話していたそうです。
○茶室の特色 宝形造りの茶室のお床は、欅の一枚板に網代天井です。真っ黒な黒柿は、素晴らしい材です。宝形造の茶室は、小さいながらも非常に意匠に凝った、趣味に溢れたお部屋です。茶室の天上は竿縁天井です。秋田杉の柾目の板に、杉と煤竹(すすだけ)と、もう一種類の材が竿縁として入り、これをコンビネーションにして非常に軽やかに仕上がっています。
○赤と黒の色合い 酒田の町は、あんまり鮮やかではないと言われますが、実は赤と黒のコンビネーションの町、レッド&ブラックシティです。大町辺りの農家の稲倉は、おしゃれに黒と赤を塗り分け、改修工事があってもそのままに再現しています。神社、仏閣でもそうです。丹波縄屋さんでは、連子格子の所には赤が塗ってあります。今でも伝統的な色遣いを踏襲しているお家も結構あります。山王くらぶの前の方にも、その頃のベンガラの赤が未だに残っています。

北前船の間
 酒田の町は、あんまり鮮やかではないと言われますが、実は赤と黒のコンビネーションの町、レッド&ブラックシティです。大町辺りの農家の稲倉は、おしゃれに黒と赤を塗り分け、改修工事があってもそのままに再現しています。神社、仏閣でもそうです。丹波縄屋さんでは、連子格子の所には赤が塗ってあります。今でも伝統的な色遣いを踏襲しているお家も結構あります。山王くらぶの前の方にも、その頃のベンガラの赤が未だに残っています。
○部屋の特色 黒檀、紫檀、北山杉と、様々な材が使われています。建築上、穴を開けてしまいましたが、床板も欅の一枚板です。雪見障子は跳ね上がるようになっていて、非常に軽やかです。珍しい形で、花街の雰囲気があります。控えの間と奥の間との二部構成になっています。天井を見ると、控えの間は板目で、奥の間は柾目と格を違えている事に気づきます。

喜泉の間
 酒田商人達は、こんな感じでお座敷遊びをしていのではないかと再現しています。光丘さんの植林事業を紹介しています。明治期の引き札は、宣伝アイテムで、今でいうチラシです。こういう鮮やかな錦絵で人目を引きました。和洋小間物を商っている、大工町にある齋藤又吉商店の引き札です。「おしん」の頃、明治という時代が感じられます。
○部屋の特色 酒田の北前船が強い地位にあったのは、最上川と日本海が出合う町、河川交通と海上交通の結節点だったからです。この組木細工は、最上川を上る曳舟の様子を表したものです。最上川を下るのは、何カ所かの難所はありますが流れて行けました。しかし上りは、こうやって両岸から曳舟をしないと上がっていけませんでした。大石田の辺りの集落には、曳舟人足の集落が沢山あったと言われます。曳舟の逸話を伺うと、この組木細工は、より意味のあるものになります。絵を見ているような、叙情に溢れた細工です。

寺社めぐりの間
 この仏様は、文殊騎獅像で、文殊菩薩様が獅子に跨がっています。文殊様ですので、お家の方に受験生がいらっしゃるようでしたら御利益があると思います。これは文殊菩薩さんの下が炉になっている香炉で、お香を焚きますと口からモァーっと煙が出てきます。「獅子開運巡り」と関連づけ、文殊騎獅像はパワースポットの一つと説明しています。この床框の一本の黒柿は、建物の中で最大の黒柿で、なかなか採れません。
○特色 組子細工は干し網です。重りも表現されています。当時は勿論コンピュターもありませんから、この角度や、しなり具合は、全部職人が自分で入れながら組んでいったと思われます。ガラスで挟んでいるからかもしれませんが、狂いはほとんどありません。組子細工の中でも技的に非常に高度な物だそうです。この建物を建てた佐藤泰太郎棟梁は、仏教に強く帰依してた方でした。非常に信心深い方で、廃仏毀釈の際、羽黒山の仏像を多数助けました。この窓は火燈窓(かとうまど)といいます。禅宗用の仏教建築の様式に出てくる窓の形です。花の頭とか火の頭とか火を灯すという文字でカトウマドと書いたりもします。こういったデザインも取り入れていました。
○町絵図からわかること 町絵図は、「伊藤家文書」の「明暦(めいれき)の地図」を江戸後期に写した物です。江戸初期の都市計画に沿い寺町の辺りにお寺が配置されていました。新井田川と分離していない最上川があって、山居はまだ島でした。現在の商業高校跡地に庄内藩の上蔵がありました。その堀と道路を挟んで向う側に奉行所がありました。辺りに蔵が並び、堀の役割をしている新井田川を挟んで、この橋の先に城がありました。酒田は湊町、湊町といわれますが、実は城下町エリアと、湊町エリアの二つの複合的な町でした。この辺りの境目がはっきりせず、肴町はどっちに属するのかと昔から争いごとになったようです。
 本間家は、堀端という地名がある辺りです。ここに堀がありました。今のように松山街道は真っ直ぐ突き抜けてはいません。これは後々の都市計画です。酒田大火はありましたが、小路や通りを殆ど変えないで都市計画をやり直しています。今でも酒田の町は江戸初期の最上氏が入った頃の都市計画を踏襲しています。茶筅町(ちゃせんまち)という名前の町もあります。職業の町です。当時は、茶筅職人がいたと考えられ、茶道も盛んだったと推察できます。古い地図が教えてくれることは多いです。

文人墨客の間
 江戸から昭和にかけて、酒田を訪れた文人墨客の解説を紹介しています。日和山に文学の散歩道があります。散歩のついでに、酒田を訪れた文人墨客を巡る旅ができます。拓本を取りに来る方や、芭蕉と酒田を結びつけて来られる方も多いです。芭蕉は像も含めて四つあります。酒田にとって芭蕉は永遠のテーマであり、観光のスポットにもしたいところです。
○特色 組子細工は富士山と松原。富士山は必ず上三つに分かれた独立峰で描かれます。帆掛け船があって三保の松原あたりと思われます。鉄刀木(たがやさん)等の非常にいい材を使い、意匠はヘチマを用い、天袋と、襖の引き手に使われて統一感があります。

トイレのリニューアル
 以前は、男性トイレとお風呂でした。これからは女性が主体の施設になると考え、トイレの改修をしました。オリジナルで、近代的に使い易くしてあります。当時の雰囲気を出すようにリニューアルしました。洋風でもあり和風でもあるハイカラな感じになりました。

蔵座敷 誰が袖
 「『誰が袖(たがそで)』、どなたの小袖?」という名前が付いた部屋です。非常にかわいらしい名前です。それにリンクしているのが地袋の絵です。聴泉が小袖を描いています。あれは欅の玉目(たまもく)という非常に貴重な材の一枚板を使っています。土蔵は普通は漆喰とかですが、ここは布張りです。柔らかい雰囲気を出しています。
 離れの蔵座敷なので密談の場だったのでしょうか。夏涼しく冬暖かく内緒話も聞こえない蔵座敷です。明かり取りに、はめ込まれたカットガラスや、土蔵の扉で壁の厚みがわかります。

「酒田山王祭行列図」
 明治26年の加藤雪窓の作品です。非常に有名な画家のお弟子さんでしたが、何か事情があって戻ってきたようです。本物は本間家の個人蔵です。「天・地・人」という三巻立ての絵巻物で、日枝神社の山王祭の祭礼の様子を描いています。 タテ山車には農作業や風景が描き込まれています。一端中断後、この山車を手本としたタテ山車が再生デザインされたといわれています。
 ○本は夢の倶楽に展示している七宝飾りの本間家の亀傘鉾です。本ノ丁、寺町、上内匠町、下内匠町、両台町、猟師町、伝馬町、それぞれの町が山車を持って出していました。寺町の鶏太鼓の山車がありますが、これは本当に意味のあることです。中国では訴訟を起こす際に、太鼓を叩いて訴訟にやって来るシステムがあります。その太鼓に鶏が乗る位、訴訟もなく世の中が平和だという事を表現した鶏太鼓なんです。こういった故事来歴をきちんと表現した物が酒田祭りの山車のテーマになっていました。これは、すごい事だと思います。山車を担ぐ人は騒いでいないようです。しずしずと神様が現れることを知っていました。現代のようにワッショイと担ぐことはありません。

106畳の部屋
 夢の倶楽から運んできた、辻村寿三郎の人形が展示されている106畳の部屋です。広い部屋を支える材は、縦も横も一本で通っています。この普請道楽を支えている材の多様性や確かさがよくわかる所です。
○明治と昭和の境 昭和初期に改修時に継いだ部分がわかる所があります。作業機械もなかったはずですが、きちんと仕組んであります。
 続き間の天井の造り方を見ると、折り上げ格天井のある部屋は豪華です。これは、お寺やお城に使われている非常に格の高い天井の様式です。更に将軍や帝がいる場所には二重折り上げ格天井と更にもう一段高くなっている例があります。天井の穴からわかるように、この格天井の板は非常薄いです。
○檜舞台 屏風の裏に本当の檜舞台があります。ここでお姐さん達が舞っていました。結婚式場としても使われ、200人規模の宴会に対応できました。その為、すごい量の食器類が地下室に残されていましたが、殆ど使える物はありませんでした。檜舞台に上がる時は、着物を着ていますから、簡単には上がれません。引き出し式のステップです。向こう側にも同じものがあります。この辺りの床の間の材も非常にすばらしいものが使われています。楓とか紫檀とか黒柿もあり、貴重な材を豊富に使っています。
○手すり 料亭でしたので、酔っ払いの為に、至る所に転落防止の手すりや装置があります。手すりからもわかるように、廊下も途中で継いでいます。この場所にも手漉き硝子があります。

傘福の間
 傘福は50代、60代の女性を中心に人気があり、いつでも見学できます。傘福くらぶの方々が体験実習や傘福に関する事を担当をしています。売店でキッドを買って頂くと、無料で指導が受けられます。男性やお子さんも楽しんで作る事ができます。達成感もあり形に残り、町歩きの楽しみ方の一つでだと思います。30分から1時間かかりますので、余裕を持っておいで頂きたいです。
 傘福の歴史は、二つの系統があります。
○傘福「宝づくし」系 「酒田山王祭行列図」にあった本間家の亀傘鉾に吊されていた傘福の系統です。京都の細工師に頼んで作ってもらいました。京都の祇園祭は、7月の中旬にひらかれ、祇園御霊会といいました。そこの流れを汲む傘福には宝づくしという下げ物がついています。宝づくしの下げ物には、例えば、隠れ蓑と隠れ傘があります。神様は私達の前に姿を現すことはないです。神様が私達のところに姿を現すときは、隠れ蓑と隠れ傘を被っているから見えないのだと考えました。神様がいらっしゃってくれるというアイテムです。それから丁子。クローブというハーブの一種ですが、これも昔は薬として重宝されていました。それでお宝の一つになっています。お金を表す分銅は、今でも銀行の地図記号として使われています。打ち出の小槌や宝袋など、宝づくしの物を下げて吉祥幸運を願いました。これが山王祭の山車系の傘福です。
○傘福「観音講」系 女性が神社仏閣に観音講を中心に講を組んで奉納をしたというものです。花のようにきれいになるように花とか、足腰が丈夫になるように草履とか、それぞれ意味があります。大根は、当たらない役者を大根役者という言葉があります。それで病気に当たらないとなったようです。昔はジアスターゼ酵素があることも知りませんでした。ただ大根を食べると、お腹の調子良く当たりませんでした。それを関連付けたようです。トンボは勝ち虫といいます。戦いに行く時はトンボの模様を付けます。勝ち虫ということで大変縁起がいいです。講を組んで奉納をした傘福は、庶民の願いを込めたものがどちらかというと多いです。戦時中の傘福には飛行機などが下げてあり、武運長久や無事に帰ることを願い奉納したと思われます。
 作品の由来を販売していますので売店でお求め下さい。傘福は4万円~5万円、大きいもので10万円以上になります。

外回りのベンガラ
 この下見(したみ)板張りの辺りにベンガラが残っています。塗り直していません。これが本来の酒田のレッドの文化です。

山王くらぶの周辺
○泰太郎棟梁の千仏閣 棟梁の佐藤泰太郎さんのご自宅が近くにあります。これは泰太郎棟梁の千仏閣です。明治初期に神仏分離による廃仏毀釈がありました。神道と仏教が混じり合った神仏習合は廃止されました。羽黒山は元々、多くの塔頭や脇寺ある大本山みたいなところでした。その為、仏像が捨てられたり、売られたりして廃絶されました。それを憂いた泰太郎さんは自分の小遣いから少しずつ仏像を自分のところに集め、ここに千仏閣を作り供養していたそうです。 昭和50年代、子孫の方が集めた仏像を羽黒山に返しました。出羽三山歴史博物館に佐藤コレクションとして保管されています。ものすごい篤志家だったことがわかります。泰太郎棟梁のおかげで救われた仏像は数多いです。この千仏閣の屋根を見て下さい。牡丹があります。牡丹といえば唐獅子です。唐獅子は非常に強い神獣なんですが、ただ一つ苦手な物があります。それは獅子身中の虫です。牡丹の花に溜まる夜露がその虫を退治する唯一の薬です。それで牡丹は獅子を守ってくれる為、唐獅子が牡丹とセットになっているのです。
○職人の技 酒田には、佐藤泰太郎さんを始めとする、普請道楽を支える技量を持った職人さんが沢山いました。木工関係のみならず、例えば銅板細工の職人さんによる光丘文庫の銅板葺きは非常に優れたものです。唐破風の屋根の上に、普通は瓦で作る鬼瓦が乗りますが、これも全部銅板で作っています。酒田の誇れる技です。
○タブノキと黒塀 山王くらぶを始めとして、歴史的な建造物が多い場所です。このお宅はタブノキの生け垣に黒塀という酒田の典型的な町屋の造りをしています。タブノキで、西日や西風を防ぎ火事の延焼も防ぎました。町歩きをすると、そんな酒田の典型的なお家の造り方を見ることが出来ます。

*聞き取り協力 平成25年5月27日 施設関係者*

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