湊町さかた観光ガイドテキストブック 「ぐるっと、酒田 まちしるべ」

第三章 台町界隈
8.砂高山 海向寺・粟島水月観音堂

 砂高山(しゃこうざん)海向寺は、真言宗智山派のお寺です。開山は慶長年間(1600年代)ですが、約1200年前、弘法大師により開かれたとも伝えられています。湯殿山注連寺の元末寺で、庄内にある六体の即身仏のうち忠海上人、円明海上人の二体が、海向寺の即仏堂に祀られ、第八代住職、鉄門海上人の遺品も展示されています。
 正門から続く77段の石段を上ると、酒田の町が眼下に開けます。心地よい風の吹く高台は、心癒やされる場所です。江戸時代の酒田十景の一つ「海向寺月」に観月のスポットとして描かれています。今も花火の夜には、多くの方がここに集まり過ごします。
 海向寺の住職は、代々湯殿山独特の行法をつみます。ここは、湯殿山行者の秘法の寺として知られています。湯殿山と強い関係で結ばれている二体の即身仏。その即身仏が納められた即佛堂は、真っ直ぐに出羽三山が見渡せます。まさにこうでなければならないといった因縁を感じさせ、このお寺のあるべき姿がこの高台から始まっていると思えてなりません。

即佛堂
 このお堂には、即身仏の思いがおかれています。即身仏は全国で16体確認され、北限は酒田です。湯殿山修行の方は「海」の文字が付けられ、新潟の柏崎は弥勒信仰の即身仏です。即身仏は、ミイラや平泉中尊寺藤原家方々とは違い、結跏趺坐という姿です。向かって左側、中興初代の住職である忠海上人は、庄内藩士出身で、1755年に58歳で即身仏になりました。伯父である本明海上人も即身仏です。向かって右側、9代目の和尚である円明海上人は、農家出身で、1822年に55歳で即身仏になりました。海向寺は檀家のない葬式をしない寺でした。江戸幕府は檀家制度により宗教や国の統一が出来ると考え、把握する戸籍もできました。しかし、海向寺は檀家を持たず、大勢が願を掛けに来る、願掛け寺でした。
○修行 真言宗智山派の教えに即身仏の教義はありません。50歳を過ぎる頃、住職は修行か隠居かを決めました。即身仏となられた二人は、湯殿山の仙人沢で修行の道に入りました。月山は亡くなった方に会える過去、羽黒山が現在、湯殿山が未来の山といわれています。三つかけると生まれ変わりができると信じられていました。その修行の場が、湯殿山のご神体がある仙人沢でした。「語るなかれ、聞くなかれ」と言われた湯殿山の修行は、言葉に残すことはできません。即身仏としての姿を残すことで、全てを表しています。
 即身仏になる為には、「木食修行」により生きている間から腐らない体を作っていきます。山で1000日~2000日、五穀断ち、十穀断ちといって米、麦、大豆などの穀物を体から断ちます。一日何十キロの山道を歩き、冬は氷を割って水を飲みます。山のクルミ、かやの実といった木の実、木の皮、木の根っこで命を繫ぎ、限界まで修行を積みます。そして最終的には「土中入定」、生きたままで土の中に入ります。3m余りの縦穴石室の中に木製の棺を入れ、その中に入り更に断食を続けます。湯殿山法楽を唱えながら鐘や鈴を鳴らし、息絶えるまでおよそ5日間、音が止まれば即身仏になったものとされ、掘り起こします。そして再び、土の中で1000日程、その後堀り上げ、現在のようにお祀りすることができるようになります。
○即身仏 湯殿山のご神体湯殿からは、温泉が湧き出ています。裸足でその中に入り、修行をしました。その湯は微量の水銀が含まれているそうです。それが体内のバクテリアを押さえて腐らない体を作るという話もあるようです。それは最近の分析によるもので、即身仏になる教本があったかどうかわかりません。明治時代になり、出羽三山は廃仏毀釈で神社に変わりました。即身仏は自殺幇助として禁止され、それ以降は行われていません。 
 今から45年程前、新潟大学、東京大学の先生達が学術調査に入り、最終的に全身にニカワを塗り保護しました。着物は12年に一度丑年に衣替えをし、古い着物は小さな布にし、お守りに入れしています。即身仏は人々の苦しみを救い願い事を叶える為に、厳しい修行の末に姿を残し、命の大切さや日常の大切さを今も気づかせてくれてます。

砂高山 海向寺
○成り立ち 海向寺の始まりは、はっきりしていません。400年程前の庄内寺社領控に酒田城下寺院として載っています。又、弘法大師の伝説もあります。当初、上の山の辺りに建てられていたようですが、類焼を避ける為あるいは不毛の地を開墾する目的の為か移転しました。亀ヶ崎城下絵図、明暦の絵地図では現在地に記載されています。
○鉄門海上人 東岩本の本明寺の住職をしていた鉄門海上人は、注連寺の命令で、地震で倒壊した酒田の復興の為に派遣されて来ました。海向寺8代目住職で1892年に即身仏として入滅し、湯殿山の注連寺に祀られています。全国行脚の際、眼病が流行して悩む人々のために、自分の左眼を隅田川の龍神様に捧げ祈願し、恵眼院鉄門海上人と呼ばれました。女人禁制の山に男装してついて来た女性を帰らせるため、自分の男性の部分を切り取って渡しました。体の傷跡が合う本当の話です。そういうエピソードのある方です。
○大日如来様 本堂は、力士4人が屋根を支える権現造りです。海向寺は、今でも神仏一緒の世界があります。湯殿山の御縁年が丑年なので、丑年にご開帳して参拝して頂きます。
○梵天 神仏習合で、願いを叶える梵天という道具を使った祈願をしています。2月18日の大祈願祭の直前に、千枚の紙で出来ている千枚梵天を作ります。昔は世話人が、本寺の注連寺に梵天を背負って歩いて持っていきました。
○即身仏になれなかった人 明治時代に入ると自殺幇助という刑ができました。即身仏になる為の土中入定の手助けをすると、殺人罪に問われました。その為、明治以降の即身仏はいません。しかし、修行中に明治時代に入り、修行を中断した行者さんがいました。即身仏になれなかった五十嵐霊雲海上人と佐藤善海上人です。二人は自分の木像を刻み、自らの髭を木像に取り付けました。
○びんずる尊者 本堂の廊下には、びんずる尊者がいます。お釈迦様の弟子、十六羅漢の一人で、神通力が大変強い方でした。俗に「撫仏」といわれ、病人が自らの患部と同じところを触れることで、その神通力にあやかり治して頂くという信仰があります。杖をついてきたおばあさんが帰りに杖無しで帰ったこともあります。
○青面金剛童子 庚申は青面金剛童子です。船場町の昔廻船問屋だった奥山七三郎家が寄進してくれました。庚申の年に身ごもった子供は悪党になるという俗説があり、身ごもらないように、夜は寝ないで祈りをかけて過ごしました。密教、インド、イスラム系統では、怖い形の仏様がいます。恐い形にすることで、仏の世界に引き寄せるそうです。
○円明海上人土中入定の地 ここに生きたまま入り、断食をしながら経を読み続け、即身仏となっていきました。音が止まってから、更に3年3ヶ月土の中にて、掘り起こしお祀りしました。入定の碑の左奥にボロボロになった石塔があります。それが鉄門海上人の碑です。
○「夢つむぎ」 老舗の小松屋さんが開いた茶店がありました。この「海向寺菓庵」を訪ね、お客様が遠い所からお出でになり、一日中過ごしていた時もありました。7年程営業をしていましたが閉店しました。その後、「夢つむぎ」と名を変え、ボランティア活動の場所にしています。
○酒田十景「海向寺月」 海向寺の高台は、観月の名所として描かれています。そこに描かれた鐘楼堂と鐘楼が、今も残っています。戦争時、鐘楼は供出する国の方針でした。しかし、海向寺は行列が出来る程、願を掛けに来る人々が押しかけました。酒田市では、人達の心の拠り所である鐘を奪うことはできないと考えました。そこで供出を免れました。打てば遠くまで音が響くような、よい場所に鐘楼があります。

粟島水月観音堂 「あわしまさん」
 本堂右側にある小さなお堂です。女性一代の守り本尊で縁結び、安産、婦人病、子授けと、沢山の女性の信仰を集めてきました。最近は、縁結びとして注目されています。
○ご本尊 8代住職鉄門海上人の全国行脚は、布教修行の旅でした。弟子と共に、越後、会津、江戸、北海道と広く行脚しました。それは海向寺が祈願寺で、広い範囲で沢山の信徒がいた為です。越後行脚の折り、粟島の脇川家で難産の婦人の為に泊まり込み、安産祈願をしました。その礼として頂いたのが、女性の象徴を現した岩でした。岩は重く船に乗せられない為、浜に置いて帰ろうとしたら、急に船が止まってしまってしまいました。振り返ると、岩から後光が射していて驚き、やっとの思いで船に乗せて来たといわれています。その霊石が本尊として祀られています。お堂は、天保時代に建立され、元々は即仏堂の隣にありました。移築した時に直しましたが、柱は当時のままで、本堂よりも古いそうです。
○傘福 安産平癒、身体堅固の願いから吊し始めたようです。昔は、弱いメリンス生地を用い、綿が飛び出ました。日枝神社にいた女乞食は、ボロボロの襦袢を着て傘福のようにブラブラとさせていたので「あわしまさん」と呼ばれました。傘福といえば粟島観音だったのでしょうか。古くなった傘福は、願いが込められているので、捨てずに土の中に埋めました。
○髪の毛の願掛け 昔の願掛けの方法として、女性の長い髪の毛を紙で包んで格子に結びました。この観音堂の格子にも、沢山、沢山結ばれました。風が強い日は、髪の毛がふわふわと飛んでいました。寺の境内は子供達の遊び場で、夜の肝試しには「あわしまさん」の髪の毛を取って戻るという遊びもあったようです。当時は、街灯もなく真っ暗ですので、相当に怖かったと思います。東に料亭街、西に遊廓街という時代があり、海向寺は境目に位置していました。作家の井上靖さんは「こんな色っぽい場所の一角に、仏さんの修行の場があるというのは不思議だ」と大変興味を持たれました。花街の人は、いい旦那さんに身請けされたいとか、婦人病平癒とか、切ない気持ちでお参りしていた方が多かったと思います。
○天保時代の天井絵 吹浦生まれの五十嵐雪嶺が描いた花鳥之図です。酒田十景も描いています。平成20年から1年間を費やし、東北芸術工芸大学で修復しました。あまり色を加えないで、とてもいい感じに出来上がりました。
○奉納絵馬 天井絵の修復修理の際に、天井裏から発見された絵馬があります。針箱と赤ちゃんとお母さんが描かれて、安産のお礼の絵馬かと思われます。大変古い物ではっきりと見えません。
 豆腐の絵馬は、産後の健康を祈って奉納したものです。産後の栄養として、当時は豆腐とナズナがよく食べられました。 鳥居は神仏混合の時の絵馬です。昔は鳥居がありました。多産のネズミは子宝を願う絵馬です。
○観音様 本尊の岩の秘仏は、表にだせません。そこで観音様を作りました。それが蓮の花びら一枚に載っています。とても古いものです。
○男石 堂の横にある男石は、ご神体である女石に会いたくて、登って来たという言い伝えがあります。
○粟島観音の夜会式 江戸時代から続く、護摩祈願、灯籠供養の粟嶋観音の夜会式が、8月1日から3日に行われます。灯籠供養は「家内安全の為のロウソク奉納」と言いながら、この台に参詣に来た方のロウソクを頂き、移し替えます。護摩祈願は、参詣に来た方が護摩木の裏表に願いを書き、体をさすり息を吹きかけます。湯殿山系統の祈祷で、長く参寺としての信仰があり、大勢の方で賑わいます。

*聞き取り協力/平成25年7月10日 海向寺住職*

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