湊町さかた観光ガイドテキストブック 「ぐるっと、酒田 まちしるべ」

第三章 台町界隈
9.台町界隈の神社仏閣

悟真山 善導寺
○成り立ち 510年程続いた浄土宗のお寺です。文亀年間(1500年代初め)黒森に開創されました。開基は岌徹で、総本山知恩院から奥羽の念仏強化の為に赴きました。明暦年間(1600年代中頃)浜町天正寺町に移転し、善導寺小路という通りもありました。明治21年(1888)道路拡張の為、現在地に移り、善光寺如来分身霊場でもあります。
 天正寺町善光寺小路から移転した頃は、町外れで処刑場もある寂しい場所でした。檀家になる人もいなく、托鉢もしました。墓地は離れた場所で不便でした。移転しなかった浄徳寺の土地が北里町となった事から、民家が建ち始めました。大正4年(1915)、9月6日、当山中興第26世源隆上人の代に本堂が建立され、現在はオレンジ色の鴟尾があるお寺として親しまれています。
○首斬り場のお地蔵さん 酒田西高校の旧校地一帯には、かつて庄内藩処刑場がありました。傷害致死、強盗傷害、恐喝、住居侵入、十両以上窃盗、主人に対する傷害、詐欺、姦通、誘拐等、江戸時代は簡単に処刑を執行しました。見せしめの為、刑場は人の集まる街道の側にありました。酒田刑場には、「首斬り場のお地蔵さん」と呼ばれる地蔵尊が安置されていました。台座の後ろに「天保15年(1844)壬辰九月之を立つ」と彫られ、田村の三丁目惣右エ門が立てたものです。酒田刑場は、明治2年の幕府への忠誠を貫いた若い三烈士の処刑を最後に閉じられました。お地蔵さんは、刑場が廃止された時には持地院裏側に移転し、刑務所が建てられた時には西側に移され、明治35年に酒田高等女学校が出来た時には向かいの善導寺に移転しました。昭和2年に赤いお堂を建て、「首斬り場の地蔵さん」では物騒なので、子供の成長を見守る「赤子地蔵」に名前を変えました。昭和48年、道路拡張工事で地蔵堂を境内に入れ、西向きから南向きに変えました。この辺りは、昔はよく人骨が出ました。罪人をあちこちに埋めたようです。善導寺は、そのような方達を丁寧に弔ってきました。地蔵堂の前にずらりと並んだ墓石は、天正寺町の善導寺小路時代の無縁の墓石です。最近は跡継ぎもなく無縁仏も増えています。無縁仏の観音様を建立しました。合祀していこうと思っています。
○宝篋印塔(ほうきょういんとう) 地蔵堂の横。この石塔には、供養の経文が入っています。「文政四年辛巳九月」と刻まれ、下黒川の弥助、知三の二人の石工が作りました。この辺りは、刑場があった為、燐が燃えて、魂が浮かび上がってきていたそうです。それを見た旅の僧が、なけなしのお金で屋根をかけた宝篋印塔を建立しました。
○芸妓の碑 新町芸者の藤間流の吾妻屋辰枝、その姪の今町芸者の花柳流の今咲屋咲江の芸妓の碑があります。二人とも頭がよく、俳句、箏曲、舞踏と競い合い、花街を盛り立て芸娘さんを育てました。それぞれのお弟子さん達が讃える碑を建てました。
○白旗浩蕩歌碑 若山牧水の努力により建立された弟子の碑があります。酒田の米屋町の酒造業に生まれ、上京しますが、帰郷。持病の耳疾による筆談でしたが、牧水主宰「創作社」の同人として多くの作品を残しました。大正14年44歳で亡くなっています。
「うごくともみえぬ白ほはいつしかに ありどをかえぬ海の静けさ」
○久村清斎壽碑 酒田名匠である清斎は表具師でした。昭和20年に85歳で亡くなりました。息子の清太さんは、人絹発明で藍綬褒章を受け、帝人会長、日本化学繊維協会長です。
 善導寺前住職は、今年83歳の小柄ながら矍鑠たる御婦人です。23歳で結婚、27歳でご主人を亡くし、それから京都で尼僧の修行。昭和39年から平成17年まで職に精進し、息子さんに引き継ぎました。その方が語るお寺の歴史の細やかさには、思わず聞き入ってしまいました。
*聞き取り協力/平成25年9月5日 善導寺 前住職*

妙法華山 蓮尚寺
 日蓮宗のお寺です。開山は明治38年、開祖は日経上人です。明治後期、いばらの薮地で化物屋敷と呼ばれ、近づく人もいない場所を、無双の霊地として日蓮宗道場を創立しました。竜神を得脱勧請し五穀豊穣を祈願しました。昭和17年妙法結社としましたが、昭和27年からは、日経上人の素志を表し、蓮尚寺としました。
*平成25年8月16日 酒田市HPより*

春王山 光國寺
 真言宗醍醐派のお寺です。かつて羽黒派修験の光國寺満蔵院でした。永正年間に開山。同寺は出羽三山の宿坊でかつて境内には観音堂、釈迦堂、仁王門がありました。庄内三十三観音の二十番目です。本尊聖観音は元禄7年の作とされ、転々としましたが、廃ることは無く、巡礼は多く、最後は今町に移されました。よほど由緒ある観音様だったようです。今町遊廓はこの観音堂を中心に発達しました。「これやこの浮木にあへる亀ヶ崎かかるみのりの世に生れきて」本堂の屋根の紋は酒井家の裏紋がついています。剣かたばみだそうです。昭和二十六年にあびこ観音を勧請し、ここの場所を間借りしてその後お堂を新築し広く信仰を集めました。そのあびこ観音堂は今は泉町の方に移りました。こちらのご住職様の名字はお寺さんと同じ光國寺さんです。向かって右側の狛犬はお腹に子供の狛犬を抱えています。左側には子供はいません。右は雌、左は雄と言われています。
*聞き取り協力/平成25年8月20日 光國寺関係者*

良茂山 持地院
 宗派曹洞宗のお寺です。古湊から始まったとされ、開山は応永2年(1395)、本尊は正身釈迦牟尼仏・鎮守千手観世音菩薩です。開祖は岩手県胆沢永徳寺二世の湖海理元禅師で、海晏寺を作り、一年遅れて持地院を作りました。庄内三十三観音霊場第十番札所。「じじいんさん」と親しまれています。
○酒田大仏 初代酒田大仏は、明治27年の庄内大地震や日清戦争で亡くなった人達の霊を弔いたいという願いで、大正3年に建立されました。寄附も集まらず、中国まで出向き募金集めをする等、大変な苦労を重ねた末のものでした。しかし、金属を回収し武器に作り変える命令が、戦時中に発せられ、大仏と梵鐘を供出しました。平和を祈願して建立した大仏が戦いに使われ、言いようのない悲しみでした。空しく台座だけになってしまった大仏をもう一度再建したいという思いは、代々の住職に引き継がれ、平成4年に二代目酒田大仏が再建されました。檀家さん達から沢山の寄付を頂き、6月に開眼供養を果たしました。青銅の立像としては日本一と言われ、厳島神社から見る大仏が一番いいと言われます。大仏さんは、手を下げた左手で願いを聞く与願(よがん)を示し、五指を伸ばし掌を正面に向けた右手で不安を取り払う施無畏(せむい)を示します。高さは大仏さんだけで13m、台座を入れて17mです。大型トラック何台分にも分解され運ばれました。空洞の台座の中には、卒園児のタイムカプセルが納められ、成人の日に集まり開けられます。
○森の山 盛った山や地蔵菩薩をお参りする信仰から、盛る山と書いていた時代もありました。8月23~25日、赤いお堂を中心に行われ、無縁地蔵、歯骨地蔵、水子地蔵が祀られ、三日間通うと、亡くなった親しい人に会えると伝えられています。最終日に木羽仏という札、水子地蔵、歯骨地蔵、無縁地蔵の塔婆木を木船に納めて燃やします。以前は、精霊流しのような流勧頂でしたが、行政上の理由で出来なくなりました。曹洞宗に多い森の山信仰ですが、宗派を越えたものがあり、庄内地方の森の山信仰は、特有な形態で、県の文化財に指定されています。
○大滝都矢さんの寿影像、寿碑、植樹した松 大滝都矢さんは、118歳の長寿を全うし、天保八年十月十日に亡くなりました。持地院門前に住み、餅、菓子を商っていました。観音様の御利益で長生きできたと、108歳の時に贈った「寿」と書かれた扇は、寺宝として大切にされています。寿碑さんの長寿を称えた玄斎の歌が残されています。「百あまりおいのとし浪たちなれていきるかひある袖のうら人」と刻まれています。
*聞き取り協力/平成25年7月11日 持地院住職*

厳島神社(弁天さん)
 社標は副島種臣の書です。明治25年に本間家別荘に11泊した時に書いたといわれています。道祖神は、秋田街道の道ばたで旅人の安全を見守ったとされます。ここから見る酒田大仏が一番いいと言われ、近くの教会の屋根も見え、三大パワースポットです。
 寛永五年、了現が弁財天を勧進し鎮守としました。明暦3年に伝馬町が完成し、今町の町作りも始まりました。弁舌や技芸の神である弁天は、芸娼妓に篤く信仰され、今町の弁天さんと呼ばれました。又、取引先の旦那衆からも大切にされました。狛犬は出雲型です。明治14年に南向きだった社殿を東向きに改めました。「諸国芝居繁栄数望」の前頭である「出羽坂田」は、遊郭で行われていた「今町歌舞伎」のようです。今町は、全国遊廓番付でも前頭で大変繁盛していました。
*聞き取り協力/平成25年7月19日 酒田観光ガイド協会*

新町の稲荷神社
 最上川河岸に一小漁村があり、大同2年(807)に一漁民が海岸で稲荷大神の御神霊を発見し、ここの鎮守としました。それがこの神社の始まりだとされています。弘仁年中に弘法大師が湯殿山を発見された時に、対岸より川を渡り、この石の上に腰を下ろし、茫として涯しなき海岸を見渡し、高野浜と名付けたともされています。その時に座られたとする腰掛け石があります。何回も火災にあいますが、再建しています。船玉大明神の合祀、最上義光による社殿再建などで現在に至ります。本間光丘が大浜に作った常夜灯は、新町稲荷神社前とされる絵図面が残っています。正月には獅子舞の巡幸があり、夏祭りには相撲、演芸があります。以前は芸娼の踊りが盛大に行われました。芸娼の信仰の大変篤い神社でした。
*聞き取り協力/平成25年8月16日 新町自治会*

子守地蔵(今町)
 この辺りは、伝馬をつなぐ広場でした。地蔵堂は道路拡張で向こう側から、現在の位置に移動しました。堂内には安政年間の掛け軸もあるそうです。明治22年7月に石井戸組が建立した水神碑があります。毎年1月には塞堂祭りをしていました。このお堂には今町遊廓の茶屋でお祀りしていた道祖神をお預かりしていたそうです。明治大震災で廃業した時、ここに納められました。子宝や安産祈願に御利益がありました。昭和51年の酒田大火の時はこの井戸が大活躍したそうです。
*聞き取り協力/平成25年8月16日 酒田観光ガイド協会*

松の山の地蔵
 当初は山王神社にあり、持地院に移されました。ところが下台町の人の夢にお地蔵さんが現れて、別の場所に移してくれるように頼んだことから、ここに祀られたと伝えられています。この地蔵さんが山王神社にあった頃、近くに住むお婆さんが亡くなり、葬式の準備をしていると突然生き返りました。お婆さんは、お地蔵さんにまだ早いと言われ返されたと言い、手に小石を握りしめていました。それは、三途の川から持ってきた小石だとして、町の人は大事にしました。お婆さんは、毎日お地蔵さんにご飯をお供えしてお参りしたと云うことです。この町内では「子別れ地蔵」と呼ばれました。坂の下にある花街に奉公にでる娘と、見送る親の別れの場所でした。坂道も「子別れ坂」と呼ばれていました。
*聞き取り協力/平成25年8月16日 新町自治会*

日本基督教団酒田教会キリスト教会
 大正13年に建てられた洋風建築です。木造で寄棟、鉄板葺き、正面の尖塔部分が3階、その他が2階と平屋部分があります。酒田では、洋風大正建築物は少なく、貴重な存在です。
*平成25年8月16日 酒田市HP*

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