湊町さかた観光ガイドテキストブック 「ぐるっと、酒田 まちしるべ」

第三章 台町界隈
10.台町界隈の店

久村の酒場(寿町)
 慶応3年(1867)創業した久村酒屋が、昭和36年(1961)に隣に設けた大衆酒屋が「久村の酒場」です。ニッポン居酒屋紀行の太田和彦さん、酒場放浪記の吉田類さん、なぎら健壱さんら名立たる酒場ライターの紹介で広く発信され、地元のみならず県外のお客様も訪れるようになりました。一度訪れた方は二度三度と足を運ぶ方も多く、庄内の地酒を楽しみながら「久村の酒場」の雰囲気と共にいい時間を過ごしています。
 コの字型の細長い重箱のようなカウンターは天板がガラスになっていて、中に入った料理を見ながら注文ができます。夏はこの中が冷蔵となり、冷たい枝豆や岩蠣などをそのまま頂けるようになっています。カウンターで飲みたいという旅人の方は多いです。ここに座れば「久村の酒場」の人気の理由がわかります。常連さんが庄内弁で声を掛けてくれます。
 女将さんが数々のお料理を考え作っています。地元の旬を大切にし、変わらぬ庶民の味を提供しています。この季節は「うどがわらきゅうり漬」です。お品書きの流麗な文字は92歳の先代女将さんです。代々が婿取りの家でしたが、6代目の女将さんはお嫁さんです。お互いを思いやって謙虚な姿勢と笑顔でこの店を盛り立てています。
 ここで酒場放浪記の吉田類さんは「桜鱒のあんかけ、沖ギスのすり身汁」、 ニッポン居酒屋紀行の太田和彦さんは「孟宗汁、きもと酢味噌和え」、なぎら健壱さんは「寒鱈のどんがら汁」を召し上がりました。
 酒店だけにお酒は庄内の地酒の名品が揃っています。長年のつきあいもあって、蔵元さんも大小関係なく、初孫、麓井、菊勇、東北泉、杉勇、清泉川、鯉川などずらりと取り寄せしてあります。庄内の珍しいお酒を燗、冷や、常温と一番美味しい飲み方で出しています。冬場は寸胴鍋に板を敷いて一升瓶をお燗します。ふんわりしたお酒の匂いが店内に満ちます。東京の方は庄内のお酒が美味しいとリピーターになる方も多いそうです。地酒の数々を地元の庶民の料理で楽しめる大衆酒場です。
 吉田類さんの酒場放浪記で紹介されてから、急に県外のお客様が「久村の酒場」を訪れるようになりました。以前より気に入ってくださっていた太田和彦さんはトランヴェールで取り上げ、オール讀物、スカパーでも紹介されました。いろいろな雑誌でも取り上げられ、昔は酒田のおじさんの憩いの場所だったのですが、今は観光客の方や若い人が捜して来る店になりました。東北版ドコモの取材でなぎら健壱さんが訪れ、草笛光子さん、兼高かおるさん、平幹二朗さん、酒田出身の白崎映美さん、芥川賞候補の戌井昭人さん、マスコミ関係の方もアポなしで訪れます。入る時は戸惑うと言いわれますが、一端入ると気に入ってくれるそうです。
 「久村の酒場」には池があって鯉がいます。通称「松の廊下」の蓋を開けると見えるようになっています。小上がりが6テーブル、その奥に3間あって、宴会もできるようになっています。意外な奥の間の広さに驚きます。久村家の家紋の入ったタンスがあり、味噌桶を花器にしています。板戸にも歴史を感じます。
 ここで常連さんのジャズバンドのライブをしました。ステージは小上がり前の通称「松の廊下」と呼んでいる通路、料金は投げ銭とお客さん達が企画して大盛況でした。カウンターの方も聞けるようにコードを長くして楽しみました。親しみやすいジャズで、皆でスイングしたそうです。その模様は朝日新聞に取り上げられました。
 慶応3年、久村酒屋は寺町で創業。昔は大山から酒を買いブレンドして売っていたようです。「久村の酒場」の始まりは、酒屋隣の土間で、昔でいう「もっきり屋」をしたことからです。昭和36年頃から奥に続く自宅の座敷を開放し、池に掛けた廊下も広げて小上がりとし、現在の形になりました。「久村の酒場」の「の」は久村の家を使った酒場と言う意味です。
 常連のお客様は、もう50年以上通って頂いています。長年ご贔屓頂き本当に感謝しています。何にも直さず昔のままですが、皆さんに盛り上げて頂いて、常連さんに助けて頂いてここまでやってきました。久村の名刺やポスターのデザインも常連さんが考えてくださって素敵なものが出来上がり有り難く思っております。
 近年はマスコミに取り上げられ、いろいろなお客様がいらっしゃるようになりましたが、気を抜かずやれる範囲で皆様に愛される「久村の酒場」を続けていきたいと思っています。
* 聞き取り協力 平成25年8月27日 久村酒店女将*

南禅寺屋の屋号
 河村瑞賢が酒田港を起点に西廻り航路を開いたのが寛文12年で、今から300年ほど前にあたりますが、上方の文化文物がどっとこの地方に押し寄せたのは、それからのことでありました。言葉といわず食べ物といわず、果ては日常のくらしの器材器具にいたるまで、水の低きにつくように上方ブームが地域を覆ったようです。その頃の記録では、酒田港に入った船の数は春から9月までに2500艘から3000艘に余ったということですから想像以上の賑わいであり、西国の商船の酒田港への進出は急テンポでありました。
 上方流の食べ物で当時この地方に伝わったものは、朝ガユの風習であり、ゴマ豆腐や南禅寺豆腐の製法でありました。南禅寺豆腐については、酒田の日吉町2丁目、俗に肝煎小路にある南禅寺屋小寺氏がこの辺の元祖ですが、その製法は船で伝来したものではないとしても、上方調の食味として当時の時流に乗って繁盛したものであることに間違いがないようです。
 南禅寺屋は、当主で創業から五代目(昭和48年6月当時)、代々たいそう長寿を保った家系なので、逆算して南禅寺屋を名乗って南禅寺豆腐を売り始めたのも、西廻り航路、華やかなりし頃と思ってよいようです。小寺家におぼろげに伝わる言い伝えでは、伊勢参りの先祖が京に回って病み、路銀を使いはたして途方にくれた時、根が商魂の人とみえて、この際、地方に珍しい南禅寺豆腐の製法を身につけて帰ろうと、南禅寺の寺男となって一心に立ち働いた。そして、無事酒田に帰って南禅寺屋を開いたことになっているようです。南禅寺豆腐は木のまげものに布をしいて豆腐を流し、自然の重みで寄せますが、雪のように白く美しい肌でとろけるように柔らかい。戦後、庄内ではどこの豆腐屋もこれを作るようになり、今は冷やして食べる夏の食味とのみ受け取られていますが、南禅寺屋では四季これを絶やしませんでした。大正の頃、弁天小路に住んだ日本画家の加藤雪窓は、自分の近くに南禅寺屋の南禅寺があって四季絶えることがないとご自慢でした。
 南禅寺屋の屋号こそは、この店の先祖の旅先での忍耐、努力、商魂の全てを示しています。小寺家にとって家業の初心忘るべからざる宝です。
*昭和48.6.25発行「酒田かわら版」私の宝より*

白ばら
 「白ばら」は、昭和33年から営業を始め、今年で55年程になります。東北、北海道で現在も営業している唯一のキャバレーです。酒田では大人の社交場として誰もが耳にしたことがあるお店です。最初はもう少し小さかったのですが、昭和44年に3階建てに立て替えてました。現在は、フロアは約700平方メートル、ボックスが27あり、140名収容できます。一番景気のいい時代には100人弱位のホステスさんと20人程の従業員がいました。共同火力発電所が酒田に入ってきた昭和52~3年頃が最盛期でした。7時過ぎになると満席で、お金の使い方も今とは比べものにならない時代でした。懐かしい思い出です。
 今、ホステスさんの年齢は高いです。古くからのお客様が多いので、お客様の層もそういうホステスさんについています。まだまだ現役でやってもらってます。内装も昔のままでほとんど変わっていません。ステージは、昔はバンドが入っていましたが、今はカラオケを使っています。こんな本格的なムードの中でカラオケをお楽しみ頂ける場所は他にはないと思います。あとは、フィリピン人の歌手が一人いますので、歌は毎日入れています。
 今は1時間でいくらという値段設定のスタンバイ形式のものが多いです。うちはそういうスタイルをとってはいません。例えば7時でお出でになって、12時までゆっくりといらっしゃる方が結構いらっしゃいます。このスペースの中でゆったりとお客様が脇に女の子をおいて楽しむ、そういう遊び方を提供しています。今は平均的な方で一万円前後です。 8月25日に酒田出身の「白崎映美&白ばらボーイズ キャバレーナイトショー」がこのステージで開催されました。皆さんから大変喜んで頂きました。再演を望む声もありました。白崎さんも2月に始めて来た時に「うぁー、すごい」と喜ばれました。こういうハコは段々なくなっています。この間はアンコールが鳴り止まなかったですね。バンドマンもあちこちで活躍している人達でした。その人達も喜んでくれてワンステージではもったいないからツーステージやろうよっていう話をしていたらしいです。
* 聞き取り協力/平成25年8月30日 白ばら*
※「白ばら」は、平成25年12月30日に閉店しました。

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