湊町さかた観光ガイドテキストブック 「ぐるっと、酒田 まちしるべ」

第四章 日和山公園界隈
1.日和山公園と史跡

 本間家三代光丘は、船人足・丁持の冬季失業対策として、一俵幾らの代金を与え、砂俵を運ばせました。私財を投じて行った公益事業で、砂山は山となり、現在は日和山公園として人々の憩いの場所になっています。
 日和山は航海の日和を占った場所で、全国で80ヶ所程あります。酒田の日和山は、風雅な人達にト晴台と呼ばれていました。文化10(1813)年、紀州の船頭橋本屋源助等が常夜灯を寄進し、入船の目標にした頃から日和山公園の歴史が始まります。江戸時代の絵葉書「酒田十景」に、常夜灯が描かれた「日和山眺望」、桜が描かれた「山王櫻」があります。その一方、方言でゴミ捨て山を意味する「アッケツ山」という名で呼ばれていた時代もあり、明治天皇東北御巡幸の頃は、朝日山と呼ばれていました。
 大正4年、大正天皇のご即位を記念し、羽黒町出身で北大教授の星野勇三農学博士と前川徳次郎農学士に設計を依頼し公園の整備を行いました。しかし公園の一部に野球のできる運動場を作って欲しいとの運動が起こりました。大正15年、なだらかな丘を切り崩して酒田初の野球場を作り、運動会や大衆の集合場所として使用されました。その後、国の史跡名勝地に指定され、昭和3年には県民歌となった「最上川」の東宮歌碑が建てられ、昭和23年から都市公園となりました。1983年、市制50周年事業で瑞賢像・千石船・文学の散歩道が作られ、1989年には、「日本の都市公園100選」にも選定されました。

河村瑞賢翁銅像
 人口が増え米の需要が増した江戸では、何回も積替や蔵入れをしていた大津回米から、「出羽国城米」を直送する江戸回米を行うことを考え、河村瑞賢に整備を命令しました。寛文12(1672)年、西廻り航路は整備され、従来の東廻り航路よりも経済的で海難も少ないことがわかりました。「出羽国城米」、最上川流域の各藩の「蔵米」の集積地と積み出し湊となった酒田は、天下の台所大坂と直結し、上方船の出入りや最上川水運の発達で大きく発展しました。「西の堺 東の酒田」といわれ、江戸中期からは酒田でも米の取引ができるようになり、益々繁栄が築かれていきます。西廻り航路以降の30年間で、酒田の戸数は約二倍になったと言われています。
 河村瑞賢は三重県伊勢の貧農の出身ですが、江戸に出て一旗揚げるべく、お盆の供物の茄子や胡瓜が川に捨てられると、拾い上げて塩漬けにして儲けたりしました。その後、河川工事で資産を増やし、振り袖火事で江戸が火の海になり自宅も燃えている時に、木曽に飛んで木材を買い占め、並ぶ者がないという大変な豪商となります。人物的にも優れ、経済家としても秀でていました。幕府の公共事業にも関わり、旗本に取り立てられました。その酒田隆盛の源を築いてくれた河村瑞賢翁銅像が、昭和60年5月、酒田港を見下ろす日和山の高台に建立されました。

瑞賢倉跡
 河村瑞賢は幕府の命令を受け、安全に確実に「出羽国城米」を運ぶ為に、内陸部から集めた城米の保管場所として、陣屋と呼ばれた御公儀御米置場を設けました。そこから北前船で大坂や江戸に運びました。この倉は、河村瑞賢に因んで瑞賢倉と言っていました。日和山の南西側下、千石船の模型のあたり一帯にあったようです。蔵とはいっても柵で囲って野積みだったようです。その柵の大きさは東西が151m、南北は96mで、角は料亭「よしのや」の裏手の辺りまであったようです。川の河口だったので、洪水から守る為に度々、盛り土で高くして広げました。碑は上から見ると米の文字になっています。

北前船
 酒田では、北前船を大船と呼んでいました。西廻り航路が開発された寛文12年から、出羽国城米を酒田港から江戸に回漕するために千石船が活躍しました。千石船の帆は二尺四寸幅が50本ありました。米を千石(150トン)積めるという船で、荒波に耐えるためドングリ型でした。この日和丸は現存する模型では、国内最大のものです。西廻り航路の整備に伴い、天和3年には2500隻からら3000隻の船が酒田湊に入港し大変な賑わいとなりました。北前船は「船改め」を受けず、酒田を中心として商船として自由に活躍しました。酒田では海船を持たず、北前船や弁才船を相手に仲買いや蔵敷き料や保証口銭を収入とする廻船問屋が繁栄しました。北前船は西の文化と、播磨の塩、大坂・伊勢の木綿、出雲の鉄、美濃の茶、津軽秋田の木材、蝦夷の海産物など、沢山の物資をもたらしました。

笏谷石(しゃくたにいし)
 池の西側に銘板があります。これは北前船の寄港地、福井県から産出する笏谷石が用いられています。米を降ろし軽くなった船のバランスとして積んで戻りました。その他には小豆島の御影石、佐渡の赤玉石、伊予の青石、諸国の珍石の銘石があり、あちこちに利用しました。代表的な笏谷石は、水で青味を増し、北前船とは切り離せない石です。
○笏谷石が使われた神明坂(出町) 元禄以降の船場町が栄えると出町ができました。ここから秋田町に至る通りを鶴岡街道といい、船で赤川を下り、湊から神明坂を上ってくる旅人で賑わいました。酒田が海運で栄えた時代の玄関口です。文化14(1817)年、本間光道は、市街と港湾を結ぶ近道として、船からの荷物を背負って運ぶ丁持ちの苦労を和らげるために、湊から皇大神社へ続く神明坂を作りました。荷車に乗せた荷物を押して坂をのぼった様子が石段の摩耗から偲ばれます。笏谷石が多く使われ、海運で繁栄していた酒田の名残でした。
○笏谷石が使われた神明坂から皇大神社へ続く石段 左手は荷車が通った石段で摩耗し、右手は皇大神社への石段です。文化14年に作られた石段には、196年前の福井県の青い笏谷石、佐渡の赤玉石、伊予の青石、小豆島の御影石があります。ここを上ると皇大神社境内です。皇大神宮は、天照大神を祀り、神明神社ともいいます。そこにいくまで小さい社が幾つもあります。船の守り神でもある金比羅神社や出雲型の狛犬など湊にふさわしい神社です。神明神社から振り返ると、鳥居の間から港が真っ直ぐ見えます。多くの船頭が酒田の行き帰りには、この社に参拝したといいます。航海の安全を祈願したことでしょう。


常夜灯
 文化10(1813)年建立。紀州の船頭橋本源助らが諸廻船の安全を金毘羅神社等に祈願し、船頭衆・廻船問屋衆の寄進により、日和山の高台に建てられました。高さは約3メートルで、元々は方角石がある、あずま屋の所に立っていました。この頃酒田は、西廻り航路で栄え、この常夜灯は出入船にとってかかすことのできない灯台の役割をしていました。金毘羅大権現、天照皇大神宮、龍王宮と刻まれ、西廻り航路紀州・羽州加茂・羽州酒田や高田屋嘉兵衛、酒田の廻船問屋である鐙屋・根上・柿崎などの文字がみえます。酒田十景の絵はがきや絵図にも描かれ、今も夜には明かりが灯る日和山のシンボルです。

旧酒田灯台
 この灯台は最も古い木造六角洋式灯台の一つで、明治27年の大震災後、明治28(1895)年10月20日に宮野浦河口に竣工しました。大正12年に大浜に移転し、昭和33年に近代灯台が高砂の高台に設置されると廃止され、ここに移築保存されました。
 この灯台の光源は、当初石油ランプでしたが、大正8(1919)年にアセチレンガスの明暗紅光に改良し、大正14(1925)年に電化されました。高さが12.83m。周囲は18.45m。外壁は下見板張り、入口屋根は妻面を正面とし、棟飾りを付けるなど洋風の要素を取り入れ、上部の展望部分にはドーム状のランプ塔があります。山形県指定文化財で、棟梁は佐藤泰太郎さんといわれています。山王くらぶ、相馬屋、港座などの後世に残る建物を作った名棟梁でした。

方角石と眺望点
 酒田湊に出入りする船頭衆が、朝夕に日和を見た丘の方角石で、日時計ともいわれました。直径71cmの御影石で造られ、表面には十二支に東西南北の文字が刻まれています。寛政6(1794)年に作られたという文献があり、現存するものとしては日本最古だそうです。宿の主人や船頭衆が天候や風向きや方位を見て出帆の基準にしていました。子が北の方向、草木も眠る丑三つ時などを表しました。この眺望点から見る夕日は素晴らしいです。

梅林公園と山王亭
 春先に紅白の花が咲く梅林公園があり、山王の森を守る会の方達が、梅酒を振る舞います。その方々が作ったのが山王亭です。古電柱や台風で倒れたクロマツ材を使い、ペンキ塗りも全て手作業で作り上げました。世界遺産に登録されている中国蘇州の名庭拙政園の東屋をモデルにした六角千鳥建築です。酒田市内が一望できます。

松林銘
 宝暦8(1758)年、酒田の風砂の害を憂いた本間家三代光丘は、この山王社境内に砂山を築きグミやネムの木を移植して植林の基礎を作りました。その後、私財を投じてここから光ケ丘に至る2キロの地帯に、能登の黒松で植林を開始しました。60年の後、立派な松林となり風砂の害から免れました。光丘の没後16年を経て、文化13(1816)年に植林の功績を後世に伝えるために有志が松林銘を建立しました。「其れ酒田の地たるや南は宮浦に対し最上川に臨み」とその時の状況を刻んでいます。浄福寺十四代釈公巌和尚が撰文、御影石で出来た碑は神戸で刻まれ海路で運ばれてきました。漢文で難しいですが、解読書もあります。本間光丘の植林でクロマツ林になったことから、長坂と呼ばれた地は光ヶ丘に改名されました。

石井虎治郎 功碑
 千葉県松戸の生まれ。知識と新しい技術と粘り強い仕事で、最上川、赤川治水工事、酒田築港に貢献しました。その功績を讃え、本間家は彼に家屋敷を与え酒田に永住させました。

大川周明 碑
 明治19年、酒田西荒瀬村に生まれ、アジア植民地解放の父と言われています。戦後A級戦犯となりますが、不起訴となりました。アジア・アフリカは独立開放され、大川周明の夢は実現しました。この碑は大川博士生誕100年を祝い建立されました。昭和33年東京青山斎場にて行われた葬儀で霊前に捧げた弔辞の漢詩です。

荒木彦助 胸像
 嘉永5年生まれ。酒田下内匠町の人で米相場師として活躍し巨富を積みました。最上川改修・酒田築港に力を尽し、第三代酒田商工会議所会頭を務めました。

愛の贈灯
 昭和44年6月に贈られた電信柱です。木の電信柱を見ることも珍しくなりました。「愛の贈灯 東北電力」の字体が、年代を感じさせます。

*聞き取り協力/平成25年6月12日 酒田市観光ガイド協会*

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