湊町さかた観光ガイドテキストブック 「ぐるっと、酒田 まちしるべ」

第四章 日和山公園界隈
2.日和山公園の神社

出町にある「神明さん」へ
 海運で栄えた酒田湊。長い航海を終えた船頭衆が、湊から酒田へ入る時、必ず通ったであろう出町。その出町へと続く神明坂は、文化14年、本間家4代光道により、市街と港湾を結ぶ近道として、船からの荷物を背負って運ぶ丁持ちの苦労を和らげるために作られました。神明坂を上ると、坂は二手に分かれます。左は荷車が通り摩耗した石段であり、右は皇大神社へ続く参詣の石段です。
 この山門で振り返ってみると港が真っ直ぐ見えます。神明さんと呼ばれる境内に点在する鎮守の意味というものを感じます。酒田が湊で生きていた時代、日本各地の船頭衆、客人が、ここで手を合わせ、航海の無事を願った場所で、江戸時代、明治時代の酒田湊を感じられる所です。

○皇大神社(神明さん)
 真っ直ぐ進むと、皇大神社(神明さん)があります。先人は西北の御富士山という高台に祠を建立し、天照皇大神宮を祭りました。元文5年に風砂の為、現在の地に移転し、その後焼失。弘化三(1846)年再建したのが、現在の社殿です。金比羅大権現稲荷大明神を合祀し、酒田の人々や諸国の船頭客人で賑わいました。俵のしめ縄が立派です。港がここから真っ直ぐ見えます。

○金比羅神社
 本社は香川県仲多度郡象頭山(琴平山)の中腹にあります。社伝では文化8(1811)年、秋田町の増川勘太郎という人が讃岐の金比羅本宮から勧請したといわれます。明治12年、日和山公園内に移転しました。明治24年に再び現在地に祀られ、今の建物が造営されたようです。酒田湊の賑わいを今に伝える遺物が残っています。
出雲型の狛犬 ここで魅力があるのは狛犬です。柔らかい出雲石で出来ているため、ひどく摩耗しています。出雲型の珍しい形で、跳躍姿勢でお尻をぴんと跳ね上げ、前のめりになっています。出雲型の狛犬は、この金比羅神社が一番古く、他には光丘文庫前の稲荷神社、浅間神社、今町の厳島神社に残っています。
蛸薬師の石塔 摩耗がひどい石塔は、大変珍しく西廻り航路で栄えた酒田湊にふさわしいものです。昔、瀬戸内海の漁師の網に蛸が薬師様を抱いてかかり、喜んだ漁師はそれを大切に祀ったといわれています。又、慈覚大師円仁が唐からの帰国の海路、暴風雨にあって遭難した時に海に投げて無事に帰国できた時の薬師ではないかともいわれています。この蛸薬師は、豊漁とイボ取りに効き目があるとされていました。その蛸薬師が北前船に運ばれて、船の神様であるこの金比羅さんの隣に奉納されたようです。神社前には、天保2(1831)年、阿波国の回船問屋萬屋甚平など6名が寄進した石鳥居があります。天保2年の石鳥居は最も古く、鳥居には願い主徳島県阿州という文字が読めます。
四ツ爪錨 千石以上の北前船に積まれた大きな四ツ爪イカリです。このイカリは日本で二番目位の大きさのものだそうです。北前船の錨を雨ざらしにして風化させてしまいました。今は保存のために、お堂が作られました。酒田資料館にも保存されていますが、これよりは小さいです。

○神明さん境内の神社
 幾つもある神社は、殆どが火事で焼け、移転し再建したものです。
 日和山神社は、真っ赤な鳥居で全体を守っている神社です。秋葉神社は、火の神です。八幡神社は、武運の神様で、全国で一番多いといわれます。酒田では、稲荷神社が一番多いです。
 この神社には、凝った彫り物の紋がついています。油、三の文字がみえます。鳥居に使っている石は御影石が多いです。「昭和3年、◯下小路」の文字がわかります。あちこちの町内会が寄進し、この境内で預かっている神社かもしれません。
 三つの神をまとめて祀ってい三社宮です。この鳥居は「酒田市本町五丁目 昭和9年」の文字が読めます。町内会が寄進したものです。三つの神を祀っているのは、山居倉庫の三居稲荷もそうです。

下日枝神社へ
 「神明さん」から「山王さん」と呼ばれる下日枝神社へ向かいます。

○下日枝神社
下日枝神社の鳥居(表参道) 下日枝神社でも神仏混合の時代がありました。仏教は比叡山の天台宗で、その教理に一心三観の教えがありました。その教理と山を合わせて上が三角のデザインの鳥居になったという話です。赤色は珍しいといわれますが、魔除けの色です。新潟地震の時に倒壊し、昭和56年に再建しました。
 この鳥居の神額は西郷隆盛の文字です。戊辰戦争の時に庄内藩は会津に荷担し、最後まで戦いました。しかし西郷隆盛の寛大な処置で、お咎めが殆どありませんでした。酒田に南洲神社があります。全国に4カ所ある内の一つです。熱烈な西郷隆盛崇拝者は、今もいらっしゃいます。ある時、南洲神社に大阪から来た人達は敬天愛人と染め抜いたTシャツを着て物々しくお出でになりました。勿論、酒田でも崇拝者は多く、南洲会館に集まり勉強会などを開いています。西郷隆盛に文字をお願いしたのは本間家ではないかと言われています。
 この日和山と本間光丘の関係は深く、この地を拠点に植林を始めた光丘は、天明8(1788)年に社殿を再建し、東向きを南向きとし、日和山や湊に達する参道を作り、鳥居、随身門、石橋、常夜灯、絵馬殿、神楽殿も建立しました。
下日枝神社の髄身門 本間光丘が寄進した随身門が、明治27年10月22日の大火により消失してしまい、明治40年に本間光輝が再建しました。鎌倉八幡宮と同じ形だと言われています。佐藤泰太郎、小松友次郎と並ぶ名棟梁といわれた菅原藤太が作りました。大変良い欅材が使われ、釘が1本も使われていません。額は、元帥海軍大将の東郷平八郎の書で「至誠通神」。日露戦争の時、ロシアのバルチック艦隊と戦って勝利した時の大将です。
 この随身門は「鳴き天井」で反響する位置があります。手を打ってみるとわかります。真ん中辺りがいいようです。温度、湿度、気候にもよりますが、日本一と言われた時もあるようです。邪悪から守る随身は、右が矢大臣かどもどりの神、左が左大臣かどのおさです。ガラスが曇っていて、残念ながらはっきり見えません。
随身門の瓦 随身門の瓦の紋は三つの紋が使われています。酒井家の紋である葉っぱが三つの剣カタバミ、本間家の丸本、下日枝神社社紋の巴紋です。随身門は、明治27年の庄内大地震で崩壊し、本間家で復旧に乗り出しました。ところが瓦が足りず、鶴ヶ岡城の物を貰ったりしたようです。鶴ヶ岡城の瓦は鉄分が多く、赤味がかっています。
参道 随身門を抜けると、神の聖域となります。真っ直ぐストレートに行かないで気を改めるという意味で、正面の石垣に当たり、右に曲がります。今は真っ直ぐ車で拝殿まで行ける道がありますが、以前はありませんでした。随身門を通って、右に曲がったら、突き当たって左に曲がって拝殿に向かう格調の高い恭しい入り方でした。石の積み方からその当時がわかります。
下日枝神社 向酒田の鎮守としての年代は不詳です。近江国坂本日吉山王宮より勧請したといわれています。宮野浦から当酒田へ移転し、日枝神社は二つに分かれ、上日枝神社は東禅寺城の鎮守となりました。下日枝神社は大浜の御富士山、荒町と移転し、正徳2年に現在の地へと移転し、宝暦2年、その7年後と火事で焼失します。その度に本間家が再建しました。今の社殿は天明4年、230年前に再建。慶長八年より酒田の守り神として山王社は信仰を集めてきました。本間光丘の寄進により、社殿や参道が完成し、今でも「山王さん」と呼ばれ、5月19日〜21日の例祭酒田山王祭りの中心として酒田の崇敬を受ける鎮守社です。祭神は大己貴神、大山咋神、胸肩仲津姫神の三神です。
 社殿の中に奉納されているものとして、播州姫路の木綿問屋奈良屋権兵衛の奉納した「菊童子」、相馬屋事件の無罪を願い書かれた加藤雪窓の屏風絵、外務大臣副島種臣の書、九州の農業指導員の伊佐治八郎が奉納した乾田馬耕農具、池田亀太郎が書いた伊佐治八郎の騎馬姿の肖像画などがあり、他にも沢山の貴重な文化財が保管されています。社に龍と四匹の猿の彫り物があります。ある時、神主が大浜で祈祷をしていると、大きな龍が現れ、祭ごとをしている祭壇の上の三宝に乗ってしまいました。これは、竜神様が御祭してもらいたくて乗ったに違いないと、日枝神社の御神体にしたといわれています。日吉大社の神使である猿は、昔から縁起が良く「魔が去る」と伝えられています。後ろの本殿と拝殿の間に、本間光丘が父親と祖父の名前で寄贈した2基の灯籠があります。
下日枝神社の鳥居(裏参道) 台町から下日枝神社へ上る東向きの鳥居があります。鳥居に瓦が乗っていて珍しいといわれます。

○浅間神社と八幡宮
 下日枝神社への参道途中の左手にある石段を上ると、赤い鳥居が見えます。浅間神社と八幡宮です。狛犬は出雲型です。御影石で作ってあるので摩耗していません。三十六人衆で有名な廻船問屋、尾関又兵衛の寄進です。
間神社 日枝神社が酒田の鎮守となる慶長八(1603)年以前の鎮守社は旧今町の外れにあった浅間神社でした。慶長六(1601)年、上杉軍と最上軍の戦いにより、酒田は戦火に焼き尽くされました。その時、浅間神社も焼かれ、石像のご神体である「木花開耶姫」は龍厳寺に預けられ、現在も祀られています。明治以前は御富士権現と称していました。浅間神社の旧称です。
八幡宮 武勇の神社の屋根には獅子がいます。強さを見せるためでしょうか。

○稲荷神社 (下日枝神社の右側、光丘文庫前)
 狭い石段を上り、その奥の方に稲荷神社があります。出雲型出雲石の狛犬です。台石に「明勢丸、栄年・出雲国鵜崎浦・明治二十年七月」と書いてあるらしいのですが、風化が進み読めない状態です。出雲の人が奉納したことがわかります。稲荷様は、商業や漁業や農業なども繁盛させる力があるといわれ、酒田では料亭や会社など個人の屋敷にも祀られています。酒田は本当に稲荷神社の多い土地です。

○光丘神社
 享和元年に亡くなった本間光丘は、大正7年になってから、植林の功績により正五位を賜りました。これを機に大正10年11月、光丘神社創建を目的とした「贈正五位本間四郎三郎光丘翁傾徳会(しょうとくかい)」が発足しました。これに呼応して庄内各町村長会が一致して賛助の決議を下しました。大正13年、庄内の本間光丘崇敬者による寄付金により下日枝神社、東北隣、字松ノ山林間に光丘神社が創建されました。本間光丘を祀った神社です。神社建立のお礼として本間光弥は光丘文庫を設立しました。

*聞き取り協力/平成25年6月12日 酒田観光ガイド協会*

TOPページへ目次へ前ページへ次ページへ