湊町さかた観光ガイドテキストブック 「ぐるっと、酒田 まちしるべ」

第四章 日和山公園界隈
3.文学の散歩道

 酒田ゆかりの全29基の文学碑が、日和山公園の1.2km程に点在する散歩コースです。
 

1.「松尾 芭蕉」
  あふみや玉志亭にて 納涼の佳興に瓜をもてなして発句をこふて曰く 句なきものは喰う事 あたはしと戯れけれは  
初真桑四にや断ん輪に切ん(はつまくわよつにはわらんわにきらん) はせを
初瓜やかふり廻しをおもい出つ ソ良
三人の中に翁や初真桑 不玉
興にめててこヽろもとなし瓜の味 玉志
元禄二年晩夏末
 元禄二(1689)年、俳聖松尾芭蕉は酒田の伊東不玉宅に九泊しました。その後、芭蕉が宿泊した酒田に興味を持った、多くの文人墨客が酒田を訪れました。本町通りには、芭蕉ゆかりの伊東淵庵不玉宅跡、安種亭令道・寺島彦助宅跡、玉志近江屋三郎兵衛宅跡があります。
 旧暦6月23日、芭蕉は近江屋玉志亭で、酒田最後の句を詠みました。句のないものは瓜を喰べさせないなどと言って面白がった句会のようです。芭蕉の句は、初真桑(初物の瓜のこと)を四つに縦割りにしないで、横に輪に切ってみましたというものです。簡単な表現で、技巧を凝らしていないように思える「軽み」という蕉風が漂う、なんとも言えない趣がある句です。芭蕉は直筆には、「はせを」と署名をしています。この句は、酒田滞在中で唯一直筆が残る、「玉志亭唱和懐紙」として本間美術館で保管されています。伊東不玉の「三人のなかに翁や初真桑」の翁は俳聖の芭蕉です。一時、近江屋を鐙屋と間違えた時代がありましたが、「曾良日記」により近江屋だとわかったそうです。

2.「幸田 露伴」
  峠を雨に越えて 湯の田に 一杯を傾け 吹浦より藤崎を経て 酒田に入りぬ (中略)
吹浦より酒田に至る 六里ばかりが間は いづれも皆海風荒く 砂舞ひて
人の行き悩むところなりしが 佐藤藤蔵 服部外右エ門 曽根原六蔵 本間宗善(光丘)
堀善蔵等の 人々の松を植え林を造りしがために 今の如くなるに 至れりといふ
十九日 酒田を立ちて最上川を渡る 茫々たる蘆荻(ろてき)人をも車をも埋めんとす
「遊行雑記」より
 幸田露伴は東京の人で、第一回文化勲章受賞者。明治文学に巨大な足跡を残している露伴は、明治25年(1892)7月、土崎港から汽船で酒田に向かいますが、嵐のため上陸を断念しました。その後、明治30年10月18日、友人の大橋乙羽と同道して、酒田に来遊し、紀行文「遊行雑記」を書きました。これを読むと、酒田は風、砂、海と自然の厳しい土地柄で、船で上陸する事ができない日もあったことがわかります。酒田に入れた喜びを、植林に貢献した人のおかげであると、お礼をこめて記しています。佐藤藤蔵、服部外右エ門、曽根原六蔵、本間宗善(光丘)、堀善蔵はクロ松の植林に尽力した人です。人も車も埋まってしまう勢いで生えていた蘆荻(ろてき)は谷地に繁茂している葦です。

3.「秋沢 猛」
  やはらかく蝙蝠あげぬ港町
 明治39年(1906)高知県に生まれ。酒田に居住し、酒田在住で作る俳誌「氷壁」を主宰しました。秋沢猛は、酒田東高校の英語の先生だったそうです。酒田港そのものが、ふんわりと蝙蝠(こうもり)をあげたかのような夕暮れの光景を感覚的に表現し、港町に寄せる郷愁をよんでいます。

4.「与謝 蕪村」
  毛見の衆の舟さし下せ最上川
新米の坂田は早しもがみ川
 寛保2年(1742)の秋、奥州旅行の際に与謝蕪村は酒田を通っているそうです。その時の作と思われます。「毛見(けみ)」とは稲の豊凶を検査して年貢高を定める役人のことです。「坂田」は酒田で、坂田次郎がいたり、坂が多かったことから、坂田と表現された時がありました。「早し」は新米の積み出しの早さと、最上川の流れの速さの両方に掛けています。蕪村は芭蕉に憧れて東北各地を歩き、芭蕉より50年位経てから酒田に来たようです。蕪村は俳画の創始者です。格調高い蕪村の俳画、文章を集めて屏風にしている人もいます。碑の文字は天保版「蕪村句集」によるものです。

5.「斎藤 茂吉」
  おほきなる流となればためらはず 酒田のうみにそそがむとする
 山形県上山市出身の歌人です。文化勲章受章者。 歌聖斎藤茂吉が昭和22(1947)年に酒田で詠みました。自然の雄大さを大らかに詠っています。この碑もとても個性的で、歌と同じく、最上川が海に注ぐ雄大な水の勢いを形にしたものです。茂吉は一風変わった性格だったらしく、数々のエピソードがあります。トイレが近く、不安で時々ブリキのバケツを持って歩いていたそうで、その写真は上山市に残されています。山形の貧しい生家から東京の医師斎藤家の養子となり、青山脳病院の院長になって、短歌の創作で文化勲章受章者になり、親しみ深い沢山の短歌を残しました。

6.「野口 雨情」
  米ぢゃ庄内 港ぢゃ酒田 日和山まで 船が来る
 大正15(1926)年8月、荒木京之助川柳集の出版記念音楽会がありました。この歌は、野口雨情、中山晋平、佐藤千夜子の三人が酒田を訪れ、京之助に贈った民謡です。野口雨情は民謡、童話作家として活躍していました。後日、酒田大浜の印象を元に「酒田小唄」も作っています。彦太郎は、日和山公園に胸像がある荒木彦助の長男で、川柳の大家で柳号を京之助といいました。初代光丘文庫長でした。

7.「若山 牧水」
  酒田滞在二日 八日午前四時半河口を出る 渡津丸に乗って私は酒田を立った(中略)
日はよく晴れて海は黒いほど碧い(中略) 天の一角には丁度いま別れて来た河口の濁り
の様に 円を作ってうろこ雲が白々と輝き散っている 「北国紀行」より
砂山の陰に早ゃなりぬ何やらむ 別れの惜しき酒田の港 「さびしき樹木」より
 宮崎に生まれ、生涯旅と酒を愛した歌人。大正6(1917)年8月6日の夕刻、新庄より汽車で酒田に着きます。酒田は停電で恐ろしい程の暗闇の中、小樽商人である男に案内されて、遊廓の明かりの中に、吸い込まれるように入っていきまました。この遊郭は新町「本五樓」であると言う人もいます。風にゆれる燭台の下で酒を酌み、女達のおばこ節を聞きながら旅情に浸り、すっかり気に入り二晩も泊まってしまいます。牧水は叙情派、漂白の歌人でした。有名な「白鳥は哀しからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ」があります。

8.「鹿児島 寿蔵」
  大川の夕凪どきのやすらぎを ハンコタンナの其の面(おも)に見つ
 福岡市出身の歌人で、昭和36(1961)年に紙塑人形(しそにんぎょう)の製作者として人間国宝となりました。酒田来訪の折、最上川渡船場で作った歌です。ハンコタンナは庄内地方の女性が作業時に顔を覆った黒い布で、汗や日焼けに効果がありました。飛島にも鹿児島寿蔵の歌碑があり、本間氏との心温まるエピソードがあります。

9.「常世田 長翠( とこよだ ちょうすい)」
  人の柳うらやましくもなりにけり
 師白雄の跡をつぎ江戸春秋庵の宗匠となった下総出身の俳人常世田長翠が晩年酒田でよんだ句です。書は仙台大年寺方丈南山古禅師。長翠は文化十年(1813)酒田で亡くなりました。江戸時代、酒田は俳諧が大変盛んで、江戸春秋庵は常世田長翠が先頭となり、宝夏静とか伊佐湖南という住職がお弟子さんになっています。美濃派は本間光丘です。同じ本間家でも4代目の光道は江戸春秋庵だったので、常世田長翠の面倒をみたそうです。日和山にあった虎鼠庵や浄徳寺門前の胡床庵など庵を作り、酒田には百人程、全国では二千人のお弟子さんがいたそうです。この句の解釈は大変難しく、人の家の柳が春風にそよそよなびいていてきれいだな、うらやましいという解釈。柳は女性を表し、人の彼女がよく見えてうらやましいという解釈。芭蕉の柳が風に吹かれて気ままに全国を彷徨い漂白する生き方に憧れたが、その心境にはなれなかったという解釈があります。本間美術館の脇にも二つの句碑があります。本間美術館の鶴舞園の設計もしたのではないかと言われています。絵も上手で椿海と号し、円山応挙の系統の勉強もしていたといい、茶人、絵師、作庭家でもありました。

10.「東宮殿下、昭和天皇」
  広き野を流れゆけども最上川 海に入るまで濁らざりけり
 大正14年(1925)昭和天皇が東宮摂政宮のとき、東北行啓(ぎょうけい)の途次によまれた御歌。翌年御歌会始の勅題「河水清」にお出しになられました。昭和3年入江侍従長の書で建立され山形県民歌となっています。作曲は東京芸大の島崎赤太郎さんです。山形放送で朝の5時に毎日放送されています。日本一の県民歌です。戦後、昭和22年に酒田にお出でになった時、日和山グランドで奉迎式に臨まれ、この最上川県民歌が昭和天皇の前で歌われました。

11.「松尾 芭蕉」
  温海山や吹浦かけてゆふ涼
 この句は伊東不玉宅で詠まれ、南の温海山から北の吹浦へかけて、日本海を一望のもとに見渡しながら、海上の舟の上で夕涼みを楽しんだ眺望を詠んだのではないかといわれています。芭蕉自筆「おくの細道」によると「温海山」は「あつみ山」とあります。この句に「海松(みる)かる礒に畳む帆莚」と不玉は答えています。碑は、天明8年(1788)酒田の俳人柳下舎寸昌が須磨明石の俳人武然の書で立てたと伝えられます。生石から石を運び、日和山で一番早くに立った碑です。

12.「松尾 芭蕉」
  暑き日を海に入れたり最上川
 松尾芭蕉が酒田で初めて詠んだ句です。安種亭寺田彦助宅で詠まれました。石碑の書は素竜本から刻まれました。始め「涼しさや」と詠みましたが、何回も推敲を重ね「暑き日を」になりました。夏の日の夕日が海に沈む雄大な景色を詠んだ名句として評価されています。

■「芭蕉像」
 これが「奥の細道」芭蕉の旅姿です。杖に網代笠を持ち、ずだ袋を肩に下げて、草鞋履いて大変健脚でした。隠密説もあります。
5ヶ月かけて歩き、山形に40日余り漂白し、そのうち酒田に9泊しました。芭蕉46才、曾良41才の長旅でした。

13.「井上 靖」
  風が海から吹きつけているので ひどく寒かった
丘陵には松が多く松の幹の海と反対側の面にだけ雪が白くくっついている
二人は丘陵の上を斜めにつっ切って 日枝神社の境内へとはいって行った
公園にも人の姿は 見えなかったが
土地の人が山王さんと呼ぶこの神社の境内にも人の姿は見えなかった
境内にはいると地面には雪が積もっていた 「氷壁」より
 文化勲章の受章者。映画「氷壁」は酒田が舞台でした。昭和33年、この境内で野添ひとみと菅原謙治が出演して撮影されました。本屋の息子さんが登山家で、その友人がここを訪れて妹さんと会う場面です。昭和60年、市制50周年記念に作られた新しい碑です。市職員と石工の合作でみごとな氷壁の碑ができました。

14.「高山 彦九郎」
  日和山とて小高き所あり 神明の宮あり 目下に最上川を見 あなたに砂山清し(中略)
九日 雨少しく降りて晴る 山王の社へ寄る 日和山の続きなり 鳥居を入り小高し
楼門を入り 小き石橋を渡る 社大なり   午末の間に向ふ 神楽殿 絵馬殿有り
下りて町へ出で 又 日和山を見まほしく  帰りて望む 南に青く小き山 丸く見ゆ
祈山と号す 弁慶が祈り出だしたりと伝ふ 「北行日記」より
 高山彦九郎は江戸中期の尊王論者で、「寛政の三奇人」といわれました。寛政二年の夏に酒田を訪れ、蕨岡から鳥海山へ登りました。彦九郎は山賊も恐れる、ただ者ではない風貌でした。現在地に下日枝神社が再建されたのは天明八年。彦九郎が訪れる2年前で、当時の日和山や下日枝神社、飯森山のことが描かれているものは少なく貴重です。

15.「正岡 子規」
  最上川を渡り 限りなき 蘆原の 中道辿りて 酒田に達す 名物は 婦女の肌理
細かなる  處にありといふ 夜散歩して 市街を見る 紅燈緑 酒客を招くの家
数十戸檐をならぶ 毬燈高く見ゆる處にしたひ行けば 翠松館といふ松林の間に
いくつとなく ささやかなる 小屋を掛けて 納涼の處とす 「はて知らずの記」 より
 夕涼み 山に茶屋あり 松もあり
 四国松山出身。俳句革新の大先達として有名です。その紀行文「はて知らずの記」によれば、明治26年8月9日酒田を訪れました。新堀から渡し船で船を下り、芭蕉と同じ道で、伝馬町の三浦屋という旅籠に泊まったようです。「酒田の名物は婦女の肌がきめ細かい事」という花街の表現、紅燈緑酒客を招くの家というのは今町、翠松館は下台町の旧今井産科医院のあったところのようです。後ろは山王の森で松の山と呼ばれ、何軒となく小屋を掛けて食べ物を売っていたようです。この時子規は27才です。野球の熱心な選手で捕手をし、幼名升(のぼる)から、野球(のぼーる)という雅号を用いた事もあります。34歳という若さで肺病で亡くなりました。

16.「伊東 不玉」
  博労の泊り定めぬ秋の風
 伊東不玉は、酒田を訪れた松尾芭蕉の宿を務め、おもてなしをしました。不玉は酒田俳諧美濃派の開祖です。この句の博労とは、馬を売り買いする職業の人で、この辺に馬を繋ぐ杭がありました。秋に転々と泊まり歩いた博労の句です。賭博打ちの馬喰ではありません。

17.「正岡 子規」
  鳥海にかたまる雲や秋日和
 酒田を訪れた翌朝には吹浦に出発しています。その時の作と思われる。

18.「斎藤 茂吉」
  ゆたかなる最上川口ふりさけて 光ケ丘にたてるけふかも
 大石田に疎開中の茂吉が、昭和22年に酒田を訪れました。その時の歌です。この後の酒田滞在中に象潟に行こうと汽車に乗りますが、ブリキ製品が落ちて目を負傷し、下車して長谷部外科医院で治療を受けました。東京に戻り礼状とお菓子が届き、その文面にはブリキ製品の持ち主だった職人を気遣うものだったそうです。長谷部医師は茂吉に酒田小松屋の呉竹羊羹を贈り、大変喜ばれたそうです。茂吉は沢山のエピソードがあります。

19.「吉田 松陰」
  海辺に出て 平砂の中を行く 最上川に至る 中間に 浜中駅あり 舟 川を済る
濶さ六町余 川を越ゆれば 則ち 酒田なり 戸数五千 或は云ふ
今は増して七千に至ると 川は大船を泊すべし 新潟以北 最も繁盛の地なり
海を離れて行く 峻領雪を含み 卓然として 前に当るは 鳥海山と為す
又 川を済ること 二次 皆 源をこの山に発す 吹浦に宿る 行程十二里
この地の米価は苞 二貫八九百銭なり 苞は五斗を容る
吉田松陰「東北遊日記」より
 幕末の尊王論者で長州の人です。外国船が出没する北辺の地を見聞するために、藩の許可も得ず東北遊歴の旅にでました。庄内入ったのは嘉永五年の冬でした。この東北遊歴で藩には戻れなくなり、江戸で斬殺されました。

20.「竹久 夢二」
  おばこ心持山王の山よ 外に木はない松ばかり
 大正11年の春、酒田滞在中に大浜海岸から鳥海山を望む絵に賛した一首で、酒田を詠んだ唯一の句です。酒田には夢二を庇護するパトロンがいました。酒田には大正~昭和に三回来ています。料亭宇八、相馬屋などで夢二の足跡を辿ることができます。絵師だけでなく詩人でした。相馬樓の夢二美術館には絵や詩が展示されています。おばこの心持ちは山王の山に似て、松の木より他に木はないと、あなたを待つ気持ちしかないと掛けています。碑の形は女性の優しさと曲線美をあらわしています。

21.「小倉 金之助」
  山王の祭りも近きふるさとの 五月若葉のかぐはしきかな
 明治18年、酒田市船場町に廻船問屋の長男として生まれ、明治・大正・昭和にわたる国際的数学者で、数学史家としても和算及び統計学も深く研究しました。さっぱりとした一首です。

22.「伊藤 吉之助」
  秋くればいではの空は雲おもく くろずむ海の浪高ならす
 明治18年、酒田市下台町に生まれました。宮本和吉・阿部次郎と庄内哲学の三羽がらすといわれています。小倉金之助と伊藤吉之助は同じ明治18年生まれで、酒田市生まれ、中学校も同じで、東大も同じという間柄でした。

23.「結城 哀草果」
  日本海に帯なす雲の棚引きて 朱き夕日を抱きたるかなや
 山形市に生まれ。昭和15年8月、鳥海山登行の際に作られました。茂吉を神の如くに慕い、農民歌人で独学で短歌を極め、アララギ選者です。天皇陛下への御進講を頼まれた時、モンペに紋服というユニークな出で立ちで進講しました。

24.「時雨 音羽」
  酒田みなとに 錨を入れて 長い船路の 宿とる船よ
町の子供に お国を問われ 国は遠いと よこ向く人よ
米は積み込む 鉢巻すがた 錨重たや 帆網は澁や
海の彼方に 消えゆく白帆 港にゃ つぎの船がくる
 作詞家です。フランク永井が歌った「君恋し」は大ヒットしました。北前船は姿を消したが帆船や汽船が来航してにぎやかな酒田港の様子が詠われています。この酒田港と題された詩は、時雨音羽集から偶然発見されました。酒田物産館では、この詩を染め抜いた手ぬぐいが売られました。昭和初年、酒田を訪れたとみられています。

25.「伊佐 湖南」
  夏山のかげひたしけり最上川
 酒田山龍厳寺三十八世住職伊佐及円です。湖南は俳号で長翠の流れを汲む春秋庵系統の宗匠でした。明治16年に亡くなりました。夏山の青い影をうつして悠々と流れる最上川の涼しさを詠んだものです。酒田の句はこの春秋庵と美濃派に分かれていました。

26.「佐藤 十弥」
  海に生きた人 海に死んだ人  海を愛する人 海を憎む人
人さまざまに 海に向かって  立ちはだかる だが
海は海なりの姿で 時にほほえみ 時に いかりの チェロをかなでる 「海」
 明治40(1907)年、酒田市生まれ。法政大学中退後、作家を志望しますが帰郷、文芸活動と宣伝美術に専念し、商業美術の先駆的役割を果たしました。特に郷土出版物に特色ある装丁を数多く残しています。生涯、詩人として活躍し昭和55年亡くなりました。酒田には「てぶくろ横町」という商店街があり、「ナナ」等の宣伝物を全部手がけていました。酒田は商業美術を学ぶ人を沢山輩出しています。佐藤十弥は酒田の大衆文化の第一人者です。「みちのく豆本」という小さい本の表紙は、ほとんどが佐藤十弥のデザインです。中央で活躍してもおかしくないセンスで、酒田の文化を盛り立てました。

27.「田山 花袋」
  飛島の風情に 富めるは われこれを 耳にすること久し(中略) つつ頻りに さまざまなる空想に耽りぬ(中略) われは車夫より この島の趣味ある物語を聞きつつ海上十数里を隔てたらんと 覚しき その小さき島を幾度となく打見やりぬ(中略) 酒田にやどりし 夜は 月明かにして積水千里 転た旅情の寂寞たるに堪へず 則ち歩して 日和山に登り遙かに過ぎ来し方を顧るに 金波閃々として山翠微茫 宛然夢中の景に似たり
「羽後の海岸より」
 群馬県館林に生まれ、明治文学に大きな足跡を残した自然主義作家。明治36(1903)年の夏、秋田から人力車に乗って羽後の海岸を南下し、酒田に一泊し、翌日最上川沿いさかのぼりました。「羽後の海岸」はその時の紀行文です。車夫は鳥海山と富士山が競い合い、鳥海山が少し背が低かった事を怒って、その頂が飛んで飛島を作ったいう伝説、島は別天地で駐在は暇でしようがない話、島の奇岩や洞門などの話をして田山花袋を喜ばせました。花袋は、北前船で栄えた酒田はもう過ぎたことで、今は寂れてしまったと記しています。

28.「宝 夏静(たからかじょう)」
  よそごとに時の鐘きく月夜かな
 酒田の本長山妙法寺二十二世住職です。夏静は俳号で常世田長翠の流れをくむ翠流社宗匠。夏静は以前「かせい」と言われていましたが、仏教の呉音読みから今は「かじょう」に改まりました。あまりにも月夜がすばらしくて、時を告げる鐘の音もそぞろに聞いてしまいましたという意味のようです。

29.「読人知らず」
  もがみがわ のぼればくだる いなふねの いなにはあらず このつきばかり
 「古今和歌集」東歌に読み人知らずとして収載されて、最上川が和歌として最初に現れた歌です。碑の文字は古今和歌集最古の写本「元永本」によります。千年前の平安時代に、この歌は生まれています。求愛のお返しの歌という説があります。稲を積む船と、嫌だを掛けています。あなたを待っていたけれど、嫌ではないけど、この月ばかりはだめなんです。都合が悪いんです。察して下さいと解釈されています。昭和天皇が日和山を訪れた時に、斎藤茂吉は「この月」は月の障り物で生理のことを意味するとの解釈ですと申し上げたら、さすがに天皇も微笑まれたということです。

*聞き取り協力/平成25年6月12日 酒田市観光ガイド協会*

TOPページへ目次へ前ページへ次ページへ