湊町さかた観光ガイドテキストブック 「ぐるっと、酒田 まちしるべ」

第四章 日和山公園界隈
5.光丘文庫

寄稿    
酒田市立光丘文庫 文庫長 佐藤 茂穂 氏
平成25年10月19日
 本間家三代当主光丘は酒田町はずれ最上川岸の五丁野地に接待寺建立を考えていました。その頃の五丁野地は葦谷地で天気の悪い日には盗賊や暴漢がでて町民や旅人は困っていました。光丘はここに寺を建てて、旅人を接待すると共に、経蔵を置き、僧侶の勉強に役立てようとしたのです。当時、江戸幕府には新寺建立禁止令があり、光丘は亡くなるまで毎年出願しましたが、実現することはありませんでした。
 大正7年、享和元年に亡くなった本間光丘は植林の功績により正五位を大正天皇より賜ります。これを機に大正10年11月、光丘(ひかりがおか)神社創建を目的とした「贈正五位本間四郎三郎光丘翁傾徳会(しょうとくかい)」が発足しました。これに呼応して庄内各町村長会が一致して賛助の決議を下しました。大正13年、庄内の本間光丘崇敬者による寄付金により下日枝神社、東北隣、字松ノ山林間に光丘神社が創建されました。
 大正12年6月、本間光丘翁頌徳会会長・荒木彦助氏に本間家八代当主・光弥氏より、文庫建築費5万円並に維持基金5万円を同家蔵書2万冊とともに頌徳会に寄付したい旨の申し出がありました。頌徳会はこれを役員総会に諮り満場一致で本間家の申し出を受けることに決しました。
 同年11月、頌徳会は財団法人光丘文庫設立を文部省に申請。同年12月文部大臣の許可が下りました。光丘文庫は大正12年6月1日創立、大正14年9月30日竣工、大正14年12月12日開館式が行われました。同文庫には本間家以外にも旧家、豪商からも多数の蔵書、和書が寄贈されました。
 財団法人光丘文庫は諸事業としても以下の附属組織をつくり社会の文化に貢献しました。「飽海郡読書会」「大礼記念郷土参考室」「荘内博物学会」「点字読書会」「酒田文化協会」。
 光丘文庫は昭和33年、酒田市に寄附され、酒田市立光丘図書館と呼ばれた時代もありました。現在は酒田市立光丘文庫となっています。平成8年に光丘文庫の建物が酒田市指定文化財になりました。
 歴史的にみて「光丘文庫」が酒田の文化に果たした役割の大きさは計り知れないものがあります。
 
参考文献   「光丘文庫の経歴概要」昭和11年6月1日発行 白崎良弥著
光丘文庫 「酒田市史下巻」平成7年3月1日発行 酒田市
内部資料 光丘文庫寄附行為に対する決議書
頌徳会決議書
光丘神社略記

建物
 真っ直ぐ正面向こうに鳥海山の山頂が見ます。大正14年に建てられた、この建物はそれを中心に左右に翼を張った社殿造りになっています。正面玄関の破風の流れるような意匠は、当時の内務省神社局建築課長 角南(すなみ)隆(たかし)の設計によります。建物は森山式鉄筋コンクリートブロック造りで、その当時としては革新的なものでした。

扁額
 「光丘文庫」の扁額は、鶴岡出身海軍中将の佐藤鐵太郎さんが書きました。佐藤鐵太郎さんは日露戦争では第二艦隊参謀として日本海海戦を戦いました。戦史研究の大家です。庄内地方にはこの人の字がたくさん残されています。この篆刻の文字は、印章や碑銘に用いられてます。

東宮台臨碑
 大正14年、昭和天皇が皇太子殿下の時に酒田においでになり県民歌になった「広き野を流れゆけども最上川 海に入るまで濁らざりけり」の歌をお詠みになりました。その時、できたばかりの光丘文庫にもおいでになりました。貴賓室は今も残されています。それを記念した東宮台臨碑があります。

甌穴(おうけつ)と円石
 鳥海産の船石とされる 甌穴(おうけつ)と円石です。長年鳥海山中にあって滝の水に打たれた玉石が鍋状の穴を作り上げた珍しい自然の手水鉢です。

資料研究機関
 この文庫は現在9万点程の蔵書があります。酒田出身の大川周明、石原完爾、伊藤吉之助、斎藤信治、小倉金之助の蔵書、貴重な奈良時代のお経、徳川光圀編の「大日本史」の写本38冊などもあります。俳諧に関しては天理大学と光丘文庫が全国の双璧といわれ、貸し出し、展示などもされています。最近では、アメリカのプリンストン大学東アジア図書館から、「月心和尚笑巖集四巻」の有無の確認のメールがありました。大川周明が収集した仏教書「常州有板経645冊」の中に納めれているもので、日本で一冊しかないものです。本間家が歴代にわたり収集した古典籍をはじめ県や市の文化財など貴重なものを所有しています。現在は、図書館よりも資料研究機関として知られる「光丘文庫」です。

*聞き取り協力/平成25年10月19日 光丘文庫文庫長 佐藤氏*

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