湊町さかた観光ガイドテキストブック 「ぐるっと、酒田 まちしるべ」

第五章 寺町界隈
4.池宝山 浄徳寺

歴史
 浄土宗のお寺です。開創は天文年間の470年位前。本堂は嘉永6年の(1853年)10月頃の160年程前、現在地に再建されました。ペリーが浦賀に来航した年です。2回火事に遭い、3度目の本堂です。最初は宮野浦にありました。酒田全体が北に移り、寺も移転しました。その後も何回か移転し、この地に落ち着きました。現住職で33代目です。

「羽州酒田浄徳寺刺繍当麻曼陀羅」
 昭和53年に県の重要文化財の指定をうけました。曼陀羅が重要文化財となり、寺での管理が難しくなりなった為、湿度や温度管理の行き届いた本間美術館収納庫に常時預けています。お寺関係の企画展があると、本間美術館に展示されます。刺繍当麻曼陀羅の下方、中央の縁記銘文は全文ではなく、要所のみ縫いとられています。図外下方に金文字で、浄徳寺七代の上人の法名が列記され、願主は十一世白天和尚の弟子である浄徳寺十二代セン誉上人問察和尚とあり、山城国(京都)室の小路絵師藤原貞行の協力を得て、当麻寺の霊像(曼陀羅)を写しとり、諸国に負い歩き、一針三針と道心を勧め、浄財の喜捨をうけて成就をはかりました。刺繍された結縁交名は4760名とされ、全国各地に渡っています。十三代随誉上人信也和尚は十二代の意をうけつぎ、更に勧進して終に成就しました。制作者であり寄進者であった縫師湯浅吉兵衛は、生国が山城国の住人で浄土教の篤信者でありました。軸装した太巻の軸棒には、「貞享2年8月25日武州江戸通油町表具師長兵衛」と墨書きされています。大きさと言い、保存の良いことからも刺繍の見事な技術と仏教の貴重な曼陀羅である。本図縦204.7㎝、横178.0㎝あります。又、縦54.0糎(サンチ)、横41.5糎の同図を版木に彫ったものがあります。

常世田長翠墓碑
 常世田長翠は蕉風の俳人で、関東の江戸春秋庵の中心的存在でしたが、権力争い等で関東を離れ、酒田に来たようです。浄徳寺、本間家が庇護し、日和山、本間美術館前に句碑があります。本間美術館の庭も長翠が造ったのではないかと言われています。当時の浄徳寺住職は俳句を嗜み、長翠は亡くなると浄徳寺に葬られました。100年忌の額は、草書体が難しく古文書会により解読されました。浄徳寺門前に胡床庵があったようです。

颯田本真尼舎利塔
 颯田本真(さった ほんしん)尼は、愛知県三河の尼様で、布施の行者と言われ、何度も酒田を訪れています。明治から大正にかけて、北海道から九州まで、震災や大火のあった154余りの町村、6万余戸に救済物資を届けて歩いています。酒田では、「三河の尼さん」と呼ばれ、多くの信者がいました。本間家、浄徳寺、民家で宿泊させています。颯田本真尼の勧めは、念仏信仰でした。昭和3年8月8日に亡くなり、遺骨が分骨されこの舎利塔に納められています。舎利塔は先々代住職が建てました。舎利塔は仏舎利といい、お釈迦様のお骨を納めたのが始まりです。仏舎利塔のことをストゥーパと言います。それに因んで、寺に舎利塔があるようです。

地蔵堂
 延命地蔵が祀られています。8月24日は、この辺りでいう森の山で、地蔵盆というお地蔵さんの供養の日です。本尊の前に、お地蔵さんを飾り、地蔵盆の供養をします。その時に分骨を納める方々は、そこに納めます。地蔵盆と森の山供養が混ざったような行事をしています。傘福がお堂の中に下がっています。

大きな蓮の中に座するお釈迦様
 由来はわかりませんが、古くからありました。

虫歯地蔵
 享保年間(1730年)終わり頃、門前に建立された半跏思惟像です。ほっぺに手を触れると、虫歯が治るそうです。

浄徳幼稚園
 昭和28年から平成3年まで、ここに幼稚園がありました。しかし、21年前の平成4年、みずほに移転しました。移った頃は園児が増えましたが、ここ十年位は少子化の為に減少してます。お寺で幼稚園を始めたのは、先代住職でした。評判の秀才で、東大に入学、大学院で勉強していた時に、先々代住職が亡くなり、十人兄弟の長男だった為、大学院を辞めて帰ってきました。本堂が再建されて100周年の記念の年にあたっていたことと、親の恩は子供に返すという言葉から、檀家さんと相談して幼児教育施設を作ったようです。本堂の中にある阿弥陀様は「のの様」と子供達に言われています。現在も、本堂で子供達に法話をしています。

* 聞き取り協力/平成25年7月24日 浄徳寺住職*

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