湊町さかた観光ガイドテキストブック 「ぐるっと、酒田 まちしるべ」

第六章 浜畑町界隈
2.本間美術館

成り立ち
 文化10年(1813)本間家四代光道は、藩主酒井侯の領内巡検の休憩所として、浜畑に本間家の別荘を築造しました。これは、港湾労働者(丁持)の冬期失業対策事業でした。庭石は、北前船の安定を保つため船底に積み込んだ綿積石(海神石)といわれた石材で、港から橇に乗せて、雪の上を運んだと云われています。
 鳥海山を借景として、蓬莱(ほうらい)島を中心とする池泉回遊式庭園は、中島(蓬莱島)の松に鶴が飛んで来たことから、酒井侯より「鶴舞園(かくぶえん)」と名付けられました。四季を通して、それぞれに美しい表情を見せます。建物は「清遠閣(せいえんかく)」と呼ばれ、柱は檜の四方柾、床の間の脇床・違棚は欅の玉杢(たまもく)を用い、京風の精緻な造りとなっています。茶室は「六明廬」と呼ばれています。庭石は各地の銘石を配し、灯籠は小豆島の御影石を使用しています。

文化10年 本間家四代光道が建立。酒井侯が領内巡視で訪れました。
明 治 末 「清遠閣」一部二階建てに改築
大正14年 東宮殿下(昭和帝)行啓。本間家別荘「清遠閣」にご宿泊。
酒田の迎賓館として多くの貴賓・名士をお迎えしました。
昭和20年 敗戦による農地解放で、本間家は1750町歩の農地を解放しました。
昭和22年 戦後初の私立美術館「本間美術館」を開きました。敗戦により、日本国民総てが自信を失った混沌とした世相の中、日本美術を鑑賞し伝統文化のよさを知ることで自信を回復させ、地方文化の向上・発展に寄与しようという設立趣旨があったとされます。ここにも本間家の地域貢献の考えがありました。初代館長は本間順治でした。
昭和23年 三重苦の聖女ヘレン・ケラー来酒し、正門脇に記念樹植樹を行いました。雛祭、「古典ひな人形展」が初めて開催され、以後毎年の行事となりました。
昭和40年 本間家から敷地1200平方メートル・美術品を寄贈され、「財団法人本間美術館」になりました。
昭和43年 創立20周年を記念して、新館落成。設計者は、伊藤喜三郎でした。
昭和58年 文部大臣より第1回地域文化功労賞受賞。
平成21年 ミシュラン・グリーンガイド・ジャポンより星を贈られました。
平成22年 本間家より土地・建物・美術品が寄贈されました。
平成24年 「国指定名勝 本間氏別邸庭園(鶴舞園)」国の名勝に指定されました。
平成25年 「公益財団法人本間美術館」となりました。
斎藤茂吉文化賞を受賞しました。
 現在は、近世の古美術から現代美術の企画展、美術品の数々、「鶴舞園」の幽邃な四季の風情と「清遠閣」の精緻な京風木造建築の美。さらには北前船で繁栄した湊町酒田の歴史まで楽しめる、芸術・自然・歴史の融合した別天地となっています。

清遠閣(せいえんかく)
 茶室「六明廬」を備えた上座敷・下座敷で、藩主酒井候が領内巡視の折度々来臨された所です。柱は檜の四方柾、床の間の脇床は欅の玉杢(たまもく)を用い、京風の精緻な造りとなっています。明治末、一部二階建てに改装。大正14年、東宮殿下(昭和帝)がご宿泊、以後、酒田の迎賓館として多くの貴賓・名士をお迎えしてきました。手吹きガラス窓や御座所のシャンデリアなどに大正ロマンが偲ばれます。床の間などに用いられているアイボリーの壁紙には、うっすらと金色の雲の形が浮かび、部屋ごとに異なる欄間の桟もそれぞれ精巧な手仕事です。重厚な欅造りの階段と梅の透かし彫りの欄間、また、北山杉一本通しの欄干・天井板も見所です。

鶴舞園(かくぶえん)
 鳥海山を借景とする池泉回遊式庭園は、池の中島(蓬莱島)の松に鶴が飛んできたことから藩主酒井侯によって「鶴舞園」と名付けられました。佐渡の赤玉石・伊予の青石など、綿積石(わだつみいし)として北前船で運ばれた諸国の銘石と小豆島の御影石の大小の灯籠が目立ちます。春は白ツツジ、秋は紅葉など、時を経た木立の風情が目を楽しませてくれます。

 本間光道は、美杜李と号し、春秋庵系の俳人でした。その春秋庵2世を継承した常世田長翠の句碑が、本間美術館の美術展覧会場の側にあります。
苗代の筅葉(ささらは)くろし后の月   長翠
緑葉や実生の松は鏡哉 長翠

*聞き取り協力/平成26年3月13日 施設関係者・本間美術館ホームページ*

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