湊町さかた観光ガイドテキストブック 「ぐるっと、酒田 まちしるべ」

第六章 浜畑町界隈
3.濱畑町の神社仏閣

天王宮八雲神社
歴史 社伝によれば永禄8年(1565)に創建しました。今から約450年程前、室町後期、戦国時代、織田信長の桶狭間戦の頃です。京都の祇園社、今の八坂神社さんの神様を頂いてお祀りをしています。詳しい場所は、はっきりしませんが、元々は酒田内町、今の本町、上本町辺りにあったそうです。何カ所かの変遷を経て、江戸時代の宝暦4年(1754)、外野町の開拓の為に移転しました。
 明治時代以前は天王宮という名前でした。神仏混淆の時代、祇園社八坂神社の神様は素戔嗚尊(すさのをのみこと)様でした。インドの釈迦の生誕地では、素戔嗚尊は牛頭天王という仏教系の神様の名前になります。その牛頭天王を祀る宮で、天王宮だったのです。明治元年に神仏判然令という、神と仏を区別する法律ができました。明治政府の意向で、決められた法律ですが、天王宮も明治2年に八雲神社となり、完全に神社になりました。
八雲神社の由来 京都の八坂神社に所縁があるので、社名は八坂神社がいいという話もあったと思います。しかし、八坂神社とつけるのは憚られる、格を下げ御本所を敬おうと同じ名前はつけませんでした。八雲は、御祭神の素戔嗚尊が詠んだ和歌から生まれたと書いてあります。「や雲立つ 出雲八重垣。妻隠みに(つまごみに)八重垣作る。その八重垣を。」古事記の第一句目で、日本最古の和歌と言われています。この歌の意味は、雲がむくむくとたくさん立つぐらいに立派な御殿を建て、厳重に垣根を八重に巡らし、大切に我が妻をお守り致しますという和歌です。我が国最初の和歌は、プロポースの和歌でした。それが、日本人の心に響くようです。素戔嗚尊は荒々しい神様だと言われています。天上界で悪さをして、姉の天照大神が怒って天野岩戸に隠れてしまい、天上界を追放されます。地上に降りて、ヤマタノオロチという大蛇を退治し、櫛名田比売を奥様として迎えました。その時にこの和歌を詠んだと言われています。縁結びの神様としても、良いと思います。
キユウリ天王さん 江戸時代、天王宮では牛頭天王様へ瓜科の物をお供えし、無病息災を願うという風習がありました。7月14、15日が、お祭りです。その時に採れる瓜科の実は、キュウリが一番手頃なものでした。キュウリをお供えする天王宮なので「キュウリ天王様」と呼ばれました。河童とは関係がありません。明治時代からは社名が変わっていますが、今でも当時の名前で呼ばれています。昔のキュウリは、表面がブツブツで、触るとイボが一杯あって痛い程でした。そのブツブツしたキュウリをお供えすると皮膚病にならないと言われていました。家庭から2本なり3本なり持って来て貰って、お供えしたら、1本なり2本なり、別のキュウリを返しました。それは種の交換をしたり、水分の多い夏野菜を食べることで体温が下がる、水分を補給する目的もありました。八雲神社の社紋は織田信長と同じ紋で、織田紋と言います。キュウリを輪切りにした形で、木瓜紋はキュウリ紋ともいい、多くの神社の御簾の帽額(もこう)に使われた文様です。八坂神社は、この紋に三つ巴がかかります。そういうことからもキュウリに纏わる話はいろいろあります。
 
谷地田との関わり 八雲神社は、町の外れで開拓開拓と移転してきた歴史があります。この濱畑町の植林開拓にも力を尽くしました。昔は八雲神社を境にして北が西荒瀬村、ちょっと川を越えると平田になりました。この辺りは谷地田と呼ばれる荒れた土地でした。日和橋という小さい欄干の跡は、農業用の堰の名残です。お年寄りの話では、そこで馬とか牛とか洗ったそうです。この辺りはそういう所でした。大浜に鉄興社があった頃、駅を使う人が非常に多く、昭和30年代頃は、手水舎の陰の辺りに時計台があって、その時計を気にしながら歩いたそうです。ここにパーマ屋さんが今1件ありますが、ここの道路を拡幅するときに、相生町で店をやっている人が店をやれなくなってしまうので頼まれてこの境内の向こう一角を長屋にして店をおきました。鯛焼き屋さん、天ぷら屋さん、パーマ屋さん、隣がもっきり屋さんの一杯飲み屋さん、そして肉屋さん、魚屋さんと並んでいました。鉄興社の人は帰りに一杯飲み屋さんで引っかけて、時計を見て駅の時間を気にしながら時間を過ごしたようです。駅を利用する人も減って学生さんも学校が移転して、この道を通らなくなってしまいました。今はこっちが駅裏みたいな感じになってしまいました。
駅が近いので、旅行者の参拝の方も見えます。リュックを背負い、鳥海山に登るのかなという方や、御朱印帳を持った方なども一日一人、三人といらっしゃいます。今年はお伊勢さんの20年に一回の式年遷宮、出雲大社さんの60年に一度の大遷宮と、記念の年です。八雲神社も葺き替え工事をしています。世の中が全体的に神様、仏様ブームです。庄内地方は、出羽三山の影響もあり、神社数が非常に多い地方だなと思います。酒田は時に、お稲荷さんが非常に多いです。商売の町だからということもあるとは思いますが、それにしても多いと思います。新町稲荷、福徳稲荷、給人町の稲荷、山王堂町の稲荷、荒瀬町の稲荷、まだまだ沢山あります。民家の敷地にもお祀りしていて、信仰深い地域です。
 *聞き取り協力 平成25年8月22日 八雲神社宮司*

福徳稲荷神社
歴史 天保3年(1833)谷地田開発の為に、京都の伏見稲荷神社から御分霊を頂き創建されました。今から180年程の歴史です。谷野地田の稲荷さん、福徳稲荷さんと呼ばれ親しまれています。昭和3年、伊東峯五郎氏が庇護して多額の神納金を寄附し、氏子の御寄進により総檜木作りの御社殿を再建し現在に至っています。酒田十景にも描かれました。
佐之山庄兵衛と碇山与蔵の碑 二人の江戸角力力士の碑は、昭和40年に本間光勇氏の功績碑を建立する時に、土の中を掘り起こして発見されました。佐之山庄兵衛は人柄が好まれた人物でした。幕下を行ったり来たりでしたが、ご祝儀を貰うとその日のうちに弟子達に振る舞い、すっからかんになる気前のいい人でした。江戸から遠く離れた酒田にも、彼を慕い弟子になって角力取りになる夢を持つ人がいました。社殿の中に肖像画があります。子供の奉納相撲は、現在は行われていません。
本間光勇耕地整理事業の碑 昭和18年に刻まれたまま放置されていたものを、故前田巌氏により昭和40年に建立されました。本間光勇は谷地田の生まれで、明治40年には西荒瀬村長、同44年県会議員、その後飽海郡農会長、山形県農会長を歴任しました。同43年には飽海郡耕地整理組合を組織で組合副長となり、20数年にわたって心血を注ぎました。地主と小作の共存共栄を図り、適正小作料を策定するため飽海共栄組合を作るなど、本間家の考えを受け継いでいました。社殿の中に白馬に乗った肖像画があり、石碑に功績が書かれています。8月17日は例祭と記念祭です。この石碑を読み上げるのに20分位かかるそうです。
谷地田稲荷として 福徳稲荷は、酒田十景に谷地田稲荷として描かれています。その絵には、お社が二つあります。これはあくまでも仮説ですが、稲荷さんと保食大神の二つを祀っていたのではないかと思います。一つは崩れてなくなったのではないでしょうか。その為、合祀したのではないかと思います。本殿の造りには、扉が2枚あります。それを社の後に石碑を建立したのではないかと推察しています。この谷地田稲荷に描かれる鳥海山は、今もこの社から見る事ができます。

福稲荷神社(浜畑町)
浜畑植林の礎 浜畑町は日本海から吹いてくる強い風のために、一面の砂原でした。平田郷の大庄屋尾形庄蔵は宝暦元年(1751)、藩に願い出て濱畑に移住し、この地方の植林を始めました。この植林事業の成功を願い、尾形家の守護神であった稲倉魂命を、浜畑の自分の家の近所に祀ったのが、この稲荷さんです。この小さな社は、浜畑開拓の礎だったのです。明治元年に社殿を改築し、昭和22年に本殿を新築しました。この稲荷神社の狐は金網の檻に入れられていました。今は金網が壊れて枠だけになっています。石が出雲石で脆く危ないので、氏子さんで考えたようです。大切にされてきたお稲荷さんです。
*聞き取り協力 平成25年8月22日 八雲神社宮司*

大日山福王寺(南千日のお不動さん) 
剣の絵馬 真言宗醍醐派の末寺で、不動明王の密教のお寺です。300年程経ています。今の御住職で10代目です。不動明王は庄内十三仏の一つです。恵比寿様は山形七福神に入っています。昔は北前船の海上安全祈願や眼病に効くとされ、古くは北方の守り神でした。不動明王が持つ剣の絵馬が沢山あり、明治から残る絵馬は、なんともいえない雰囲気を醸し出しています。歓喜蔵には昇天さん、長寿を願う牛の像、何となく不思議なお寺です。お祭りは4年に1回です。ご開帳は60年に一度で、大きな不動明王を見ることができます。ご祈祷専門のお寺です。
*聞き取り協力 平成25年10月8日 福王寺住職*

鎮護山 林昌寺  
歴史 宮野浦にあった浄土宗のお寺です。現在の上ノ山自転車の辺りに移転。林昌寺小路という名残があります。次に、佐藤伝兵エ薬局の辺りに移り、現在の地に移転しました。
林昌寺鐘 市の文化財です。宮野浦から渡し船に乗って、向酒田から当酒田へ移転しました。釣り鐘の移動が難しく、旧暦の一月、最上川が全部凍る頃を利用し、氷の上を押して運んだようです。永禄3年(1560)鋳造された林昌寺の鐘銘には、「出羽州田河郡大泉庄於酒田湊・・・」と。浄福寺も安祥寺も、寺宝の裏書には「田河郡大泉庄酒田湊津」と記されています。飯森山西麓の辺りだそうです。
小川宮子先生碑 江戸旗本の娘として生まれ、酒田における女子教育の草分け的存在でした。明治5年、宮野浦に住み、塾を開きました。弾琴、茶道、華道、剣術もたしなみ、明治8年繰松学校の教師となりました。学校では紋付き袴の男装でした。小川宮子先生碑は、門人によって建立されました。
三烈士の鬚髪碑 明治2年4月21日、徳川幕府への忠誠を貫いた若い幕臣、天野豊三郎、佐藤桃太郎、関口有之助の三烈士が処刑されました。酒田刑場での最後の処刑でした。妙法寺公園には三烈士の碑、林昌寺には鬚髪碑があります。首は鶴岡の八ツ興野林高院に祀られています。戊辰戦争に敗れた者達は、五稜郭、会津、庄内へ流れました。9名の幕臣が庄内藩を頼りに来ますが、9月の末で庄内藩は官軍に降伏していました。鶴岡の八ツ興屋村林高院にかくまわれ、6名は官軍に投降して東京に去りますが、3名は酒田米屋町の佐藤九郎右衛門宅に身柄を預けられます。取り調べに際しては、自説を曲げず、松山藩に送られて、酒田刑場で処刑されました。「幕府解体の際同志と所々に転戦し逃れて庄内に来り、田川郡八ツ興屋村農半三郎の許に投ぜしが、明治二年酒田民政局長官西岡周碩(しゅせき)と順逆を激論し抗弁屈せず、為に松山藩に幽せられ、同年4月21日同志二名と共に酒田に於て斬られ時に年十九、妙法寺に葬る」とあります。八ツ興屋の半三郎らは、夜陰に乗じ、ホタルを手の平に乗せ灯りとし、妙法寺境内に忍び込み、墓地を掘り起こして首を盗み、村に持ち帰って林高院に手厚く葬りました。九郎右衛門は、林昌寺境内に髭髪(しゅはつ)碑(遺髪を埋めた碑)を建立して、3烈士の御霊を弔いました。
 *聞き取り協力 平成25年9月11日 林昌寺関係者*

瑞相寺(浜の念仏堂、千日堂)
歴史 元禄8年(1695)に林昌寺の十三世曉誉上人が創始したお寺で、千日堂、浜の念仏堂と呼ばれ、念仏と鐘の音が絶えませんでした。近くに合掌小路と呼ばれた小路があり、千日堂前という町名もできました。明治27年10月22日、庄内大震災があり、沢山の人が亡くなりました。この震火災横死霊碑は、この霊を弔うために布施の行者、颯田本真尼が有志に呼びかけて建てました。瑞相寺には颯田本真尼の掛け軸もあるそうです。
念仏回向塔 正徳6年、元文7年、明和8年、文政3年、元治元年に6基建てられました。いずれも6月15日立となっています。初代亀崎城代松平甚三郎が叔父酒井忠勝の菩提を弔うために33年ごとに念仏回向塔、一基を造立しました。
工兵隊の墓 戊辰戦争の際、酒田町兵七番隊として出陣した旧大工町(現中町)の戦死者、4名の工兵隊の霊を祀っています。三十六人衆の黄金隊など酒田町兵は386名が庄内軍として出陣しました。町兵の勇敢な活躍で、新庄、本莊、横手を落とし庄内軍は雄物川を下って秋田城下に迫りました。しかし戦況が悪化し降伏しました。
米座連中の墓 江戸時代から昭和初期まで、酒田は米相場で栄えました。米座連中の真島、玉木、高橋の墓があります。台座に米座中と刻まれています。
*聞き取り協力 平成25年9月11日 林昌寺関係者*

浜畑の三十三観音と稲荷神社  
興屋の山 浜畑町(現・酒田市栄町周辺)地内で一段と高くなっている所は興屋の山と云われていました。天明年間の東北大飢饉や病で庄内に行けば生きられると聞いた難民が羽州浜街道を歩いて庄内を目指してきました。巡礼をしながら庄内に入り定着した人も多いということです。内町大庄屋伊東家はこの丘に、家を建て住まわせ、造園を営ませました。
稲荷神社 この高台の更に一番高い所に稲荷神社があり、隣に古い三十三観音があります。「正一位稲荷神社」の石の鳥居があり、鳥居が2基建ち、さらに石段を上がったところに真っ赤な鳥居が見えます。
 稲荷神社は、平成2年に300年祭をしましたが、年代はわかりません。2体の狐は口に鍵と玉をくわえています。以前は、左隣に皇大神社もありました。
西国三十三観音像 正面に立派な宝篋印塔、その前面に第一番那智山と彫られた如意輪観音像があり、その周辺には西国三十三観音像がいろいろ向きを変えて立ち並んでいます。お地蔵さんや泉水の跡も残っています。とても不思議な空間に感じられてなりません。興屋の山にお住まいで、先祖代々造園業を営み、稲荷神社の氏子総代をしておられるご夫妻にお話を伺いました。西国三十三観音が建立された年代はわからないそうです。稲荷神社と同じ頃だったかどうなのかも不明です。聞き伝えているところによれば、代表の人が四国まで行って、西国三十三観音を巡り、その土地の砂を壺に入れて持ち帰り、それぞれの観音菩薩の下に埋めたそうです。野原に無造作に、バラバラに置かれているようですが、実は、その札所の方向を向くように置いてあります。泉水は琵琶湖を模して造り、毎日水を下から運び上げて、いつもきれいにしていました。子供であっても、この泉水を跨いだり、遊んだりする事は禁じられていました。天正寺にあるような船型台座と船の帆に千手観音が彫られた塔もあります。作兵エと彫られています。ここにも北前船の影響があるようです。文化7年午五月と銘記されている台座もあります。
複合宗教のスポット かつてあった皇大神社、そして稲荷神社、三十三観音、密教である鉄門海上人の碑、湯殿山羽黒山月山の石碑、水神碑、鳥海山金峯胎蔵山信仰の供養塔、山田挿遊の碑と、興屋の山に住む人は狭い空間の中に沢山の宗教を集め、祈っていたと考えられます。その背景には貧困もあり、この地域の方々が宗教を越え、手を合わせ、お花を供え、心を一つにして信仰を続けることに幸せを見いだしていたのではないかと思うのです。その統一感の無さが不思議な空間を増す材料となっています。その不思議さからか、船越英一郎、片平なぎさのサスペンスドラマの舞台にもなりました。7月17日は正徳寺さんに供養をお願いしています。この三十三観音は町内の家々で一つずつ管理し守っています。篤い信仰が流れています。
山田挿遊翁壽碑 天保元年(1830)三月三日興屋の山で生まれ幼名を三太郎といいます。享年67歳明治二十九年(1896)に亡くなりました。父山田市十郎が弘化三年(1846)に亡くなると、17歳の三太郎はただちに市十郎の名を襲名します。京都で庭師の修行をして来たとも云われています。いつから挿遊という雅号を付けたのかはわかりません。「寄暢亭」は、廻船問屋で大地主でもあった小山家が、明治20年代に作らせたもので、林泉回遊式と坐観式を兼ねた大庭園です。明治天皇御巡幸跡の今は見ることができない「屋上庭園」や「清亀園」など、酒田近郊の名庭園は挿遊の一門が造りました。弟子は約50人程だったといいます。弟子達が庭師で生活を支えていけるようにしました。「興屋の山の人間は、飢えても盗まぬ」といわれました。かつて興屋に住んだ人々は、貧しいながらも、山田挿遊の庭師のプライドと信仰に守られていたのかもしれません。信望篤い山田挿遊翁の壽碑は、多くの弟子達によって、この信仰の山に建立されました。
 氏子総代の方が、山田挿遊の造園組織の流れを汲み、この興屋の山の歴史を語る最後の人ではないかと思いました。興屋の山と呼ばれた頃から住んでいる人は、現在、お二人だけです。ひっそりとした信仰の数々を知る人は少ないです。晴天であれば鳥海山を望み、涼やかな風が通り抜けます。とても不思議な空間です。
 *聞き取り協力 平成25年9月11日 自治会・資料抜粋*

TOPページへ目次へ前ページへ次ページへ