湊町さかた観光ガイドテキストブック 「ぐるっと、酒田 まちしるべ」

第七章 向酒田界隈
1.向(むこう)酒田の伝説

酒田発祥伝説
 酒田発祥伝説が残る向酒田は、「袖の浦」と呼ばれる最上川南岸の飯森(盛)山の西ふもとの辺りをいいました。
 文治5年(1189)、義経を匿ったことから、奥州平泉藤原氏は、源頼朝に亡ぼされます。その時に三十六人の遺臣に守られて、こちらに落ち延びてきたのが秀衡の奥さん、又は妹と言われる徳尼公です。一番始めは、立谷沢の妹沢の大きな銀杏の下に庵を作って住んでいたとされます。実際に立谷沢の沢の方から入って行くと、銀杏の木が沢山あり、お経を書いた石がでてきています。その後、源頼朝が土肥実平を奉行とし、羽黒に黄金堂を建立することになり、身の危険を感じた徳尼公は飯森山近くへ流れてきます。飯森山の西麓に泉流庵を建て、念持仏の薬師如来を信仰し戦で亡くなった人々を弔いました。1217年、遺臣に付き添われ亡くなったといわれています。徳尼公が亡くなった後、「袖の浦」の地侍となった三十六人の家来は、船問屋を家業とし、問丸交易で富み権力を持つようになりました。
 酒田湊は、最上川河口に出羽の国府の湊として発達しました。727年「続日本書紀」には、「渤海の国使8人が出羽国に流れつく」とあり平安中期の古今和歌集に「最上川のぼればくだる稲舟のいなにはあらずこの月ばかりは」があります。それにより、酒田湊の歴史がわかります。「袖の浦」にあった酒田湊は、最上川舟運で栄えていましたが、度重なる河川の氾濫で河口が一定せず、袖の浦は船着き場として条件が悪くなっていきました。危機を感じた人々は、荷物の集積場所として便利になり始めた、最上川北側への移転を考え始めました。当時、袖の浦(向酒田)には戸数千余軒、対する最上川北側(当酒田)には百五十軒程しかなく、町を移動させる事は大決断でした。しかし、日本が戦国時代の真っ只中だった1504年(永正元)頃、東禅寺城の西側「砂潟」と呼ばれる砂丘地への移動が始まり、100年程かけて町全体が移動しました。林昌寺に残される資料には、鐘楼の移動が大変で、最上川が凍る一月にソリで引いて川を横断したとあります。
 この町全体を移動させる決断を下したのが、徳尼公の遺臣といわれる三十六人の地侍達でした。

徳尼公とは
 藤原家の系図では秀衡に兄弟はいません。しかし養女説はあります。徳尼公は、泰衡の子供・万寿丸を連れて落ち延びてきたとも言われています。その子はどこに行ってしまったのかと、ミステリーツアーが企画されています。残していると抹殺されるので、存在を隠し、青森に行って巻幡姓を名乗ったとか、広島の因島に巻畑姓を継ぐ末裔のものがいるという話もあり、ロマンを求め研究している人がいます。

*聞き取り協力 平成25年6月12日 酒田市観光ガイド協会・資料抜粋*

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