湊町さかた観光ガイドテキストブック 「ぐるっと、酒田 まちしるべ」

第七章 向酒田界隈
3.土門拳記念館

成り立ち 日本を代表する写真家の土門拳は、昭和49年、酒田市名誉市民第一号になりました。感激した土門拳は、突然、約7万点にのぼる自分の全作品を酒田市に寄贈すると発表しました。酒田市では準備を重ね、昭和58年10月1日、土門拳の作品を展示する記念館が開館しました。土門拳記念館は、日本第一号の写真専門美術館です。現在は、日本全国に写真美術館がありますが、30年前にはありませんでした。
 土門拳は、「古寺巡礼」「文楽」など日本の伝統文化から、「風貌」に代表される人物写真、社会性の高いドキュメントのシリーズ「筑豊のこどもたち」「ヒロシマ」と、様々なテーマを撮っています。土門拳記念館では、沢山の全作品からジャンルを決め、テーマを区切り、3ヶ月毎に展示替えをして公開しています。

建築 この記念館の設計は、谷口吉生先生です。谷口先生は、日本の主要な美術館を設計し、海外においてもニューヨーク近代美出館改装を手掛けています。実は、この写真美術館の見所は、写真もさることながら、いろいろな方の作品が建物と一体になり融合している所です。
 例えば土門拳を抽象的に表現した、イサムノグチの彫刻「土門さん」。「土門さん」が置かれている中庭は、彫刻家イサムノグチと建築家谷口吉生の融合で作られています。草月流の三代目の家元であり、生け花の概念を超えオブジェや庭を発表している勅使河原宏さんのお庭や、日本グラフィックデザイン第一人者である亀倉優策さんのデザインした銘板など、随所にある各界一流人の作品が、この建物と融合しています。こういう形になっているのは、土門拳と仲が良かった方や、その息子さん達が、土門拳の為に協力して下さったからです。この美術館は、写真と共に、土門拳を愛する人達の心で作られた建物です。その空間も充分に楽しむことが出来ます。 
 設計を依頼された谷口生先生は、当初、土門拳の作品を建物で表現しようと考え、沢山の写真集を見ました。しかし、土門拳の強烈な個性を知り、建物で土門拳の作品を現すのではなく、公園にマッチしたシンプルで自然なものにしようと考え直しました。石や壁などの素材、地の美しさに、大変こだわって設計した建物です。美しいままで、現在に到っています。この建物は、建築界では有名な吉田五十八賞、 芸術院賞、25年賞を受賞しています。

「樹魔」 記念館の館長は、土門拳の長女、池田真魚さんです。館長室から、勅使河原宏さんが設計した「流れ 」という庭が見えます。それから、勅使河原宏さんが作ったオブジェ「樹魔(じゅま)」。「樹魔」は、桂の木の根っこで作ったもので、雨ざらしで直射日光も当たる場所に、30年間置かれ、すっかり風合いが変わりました。しかし、この場所は、「樹魔」の為に作られた、「樹魔」を置くためだけの空間で、誰も立ち入ることはできません。自然の鳥だけが遊びに来ます。ある時、セキレイが巣を作り、卵を産んだ事があります。それを聞いた勅使河原宏さんは、「樹魔」が自然に溶け込み、ここに存在していると、とっても喜んで面白がったそうです。現在は、草月の方に見て頂いたりして保護に努めています。

ブロンズ像 「はっこうさん」と呼ばれる有名な彫刻家の高田博厚(ひろあつ)さんが作った土門拳のブロンズ像があります。「土門拳に似てないわ。ベート-ベンみたいね。」と、土門拳の奥様がおっしゃったそうですが、似せることより、イメージで作られたようです。

「Y嬢」  この油絵は、土門拳が描きました。土門拳は絵や書の上手な少年で、中学の頃は画家になる夢を持っていました。しかし、20歳頃に画家の夢を諦めています。この「Y嬢」は、写真家として有名になってきた昭和25年頃の作品です。数人の仲間が銀座で個展を開くということで、土門拳も誘われ描きました。その経過を見ていた人は、服の色が赤だったり緑だったり、何回も削って塗り直していたそうです。モジリアーニ風なので、ドモジリアーニと言われているそうです。土門拳は、生涯で50歳60歳70歳と3回倒れています。60歳で倒れた後、右半身不随の車椅子となりました。しかしそれからも絵や書を書きました。左手で書いた力強い書が残っています。

作品「梅原 龍三郎」 昭和16年の作品「梅原 龍三郎」には、撮影逸話が残されています。当時、土門拳は撮りたい人の名前を自宅の襖に書き溜め、撮り終えると消し、次の候補を書いていました。襖が一杯になると、新しい襖紙を貼り、書き続けました。撮りたい人の家に直接行き、撮影を依頼していました。それ程までの気持ちを持った土門拳の撮影は、大変しつこいものでした。作品「梅原 龍三郎」は、梅原先生がシャッターを押さない事に腹を立て、怒りで爆発する寸前の顔を撮影した作品です。撮影終了後、梅原先生は座っていた籐いすをバーンと床に叩き付けました。その時、「梅原先生、もう一枚撮らせてください」と土門拳が言ったそうです。梅原先生は怒る気力も無くなって、うんざりした顔で「もういいんじゃないか」と言って終わったそうです。土門拳は、「風貌」で色々な人を撮影しました。撮影の後、とっても仲良くなる人と、「もう土門さんとは会いたくもない」という人がいました。とてもアクの強い人だったようです。

特別収納庫 一年中、温度16度に保たれています。作品の原版であるフィルムを保管し、公開できない部屋です。フィルムには、35ミリ、ロクロク(6㎝角)、ロクキュウ、シノゴ(4×5インチ)等の様々なサイズがあります。ガラスの板状のフィルムもあります。昭和25年、一番最初にカラーフィルムで撮影し、その後はシノゴサイズのポジフィルムを使っています。「古寺巡礼」は殆どがシノゴサイズのカラーポジです。

第一収蔵庫と第二収蔵庫 一年中、夜間も温度20度、湿度50%に保たれ、約八千点余りの作品が納められています。土門拳の原版は約七万点と言われ、プリントされた作品は約五千六百点あります。それから土門拳以外の作品が約二千四百点保管されています。
 開館した時、第一収納庫だけでしたが、作品が増え、もう一つ奥に第二収納庫を増築をしました。増築した場所に継いだ線があります。この建物は、ここまでしかありませんでした。増築部分は、外観を変えず、飯森山の下を掘って建てました。その後、土を戻し、外観を変えずに増築は完了しました。

作品の保管 収蔵庫の作品は、欅の額に入った作品とパネルの作品に大別されます。保管は作品の大きさで分けています。大きい作品は、出し入れすると作品が傷みますので、額に入れたまま、ラックに掛けた状態で保管しています。これは、土門拳が生きていた頃に行った「古寺巡礼展」のスタイルを踏襲しています。小さい作品は、酸で写真が損傷するのを防ぐ為、黒い無酸紙で出来ている写真保存用の箱に入れています。箱にテーマと番号を記入し、必要な作品を一点ずつ出し額に入れて展示しています。収納庫には、ベタ帳や、フイルムをそのままのサイズで焼いた資料も保管されています。このベタ帳を丹念に見ていくと、この動きがあって、この動きに繋がって、この作品があるという理由がわかります。今は、スポーツ写真など、見ないで沢山連写し、撮った中から拾うそうです。土門拳の時代は、連写できるデジカメと違い、頭の中にシャッターチャンスを持ち、構えていたのではないでしょうか。自分で見つめて、これだと思ったところでシャッターを切るというスタイルだったと思います。
 モノクロの場合は、今でも元のフィルムから焼くことが出来ますが、昭和30年代~40年代に撮ったカラーポジは、残念ながら、色が退色してダメになっています。元の原版からプリントしても赤茶けたような変な色のプリントしかできません。その為、カラー作品で発表されている二千点程だけを、デジタルで補正調整をし、保存して復元をし、そこから、新しくプリントをしています。実はモノクロのフィルムも劣化が始まっていて、その保存管理が課題となっています。写真界全体でも、現在大きな問題になっています。

珠玉の写真記念館 「土門拳展」は今も日本全国各地で開催されています。その都度、新しくプリントをしたり、ここにある作品の貸し出しをしています。土門拳記念館とは、別の切り口で行われている「土門拳展」を、機会があったら是非ご覧頂きたいと思います。ここ土門拳記念館でも、テーマーを変えて新しい発見ができるように展示を行っています。市民参加の写真展、年2回ミレニアムコンサートも行われています。
 この土門拳記念館にいると時間を忘れ、ゆっくりと時間が流れていきます。酒田の珠玉の記念館として、多くの方においで頂きたいと思います。

*聞き取り協力 平成25年9月14日 バックヤードツアーガイド*

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