湊町さかた観光ガイドテキストブック 「ぐるっと、酒田 まちしるべ」

第七章 向酒田界隈
4.南洲神社

南洲神社
成り立ち 南洲神社は、鹿児島県下竜尾町、沖永良部島、宮崎県都城市、山形県酒田市、全国に4ヶ所あります。南洲と呼ばれた西郷隆盛を祀る神社です。この場所は、長谷川信夫氏の自宅で、昭和42年から自宅八畳間で勉強会を開いていました。徐々に参加する人が増え、多くの人が学べる場所を作ろうと、自宅を取り壊し、神社と会館を建設しました。
 神社は、昭和51年の酒田大火の年に建設されました。ご神体は、鹿児島の南洲神社から分祀して頂いた丸い鏡です。古い神社に見えると思いますが、それは安岡正篤氏の取り計らいで、20年に一度の伊勢神宮の式年遷宮の古材を頂戴して建てられたからです。安岡氏は昭和20年8月15日の玉音放送の文章を作った一人で、当時は総理大臣の指南役でした。その後も、大臣クラスの方は、安岡氏に学んで政治を行いました。その安岡氏が度々、先々代の理事長、長谷川信夫氏を訪ねてお出でになり、昭和51年に神社や会館を建てる時にも献辞を述べています。
 戊辰戦争後、明治10年に西南戦争が始まり、2月17日から順々に1万3千人程の当時の私学校の生徒が中心になった兵隊が、熊本、下関、大阪、東京と向かいました。西郷軍の藩士は鹿児島出身の方が殆どでしたが、宮崎、福岡、熊本、長崎と仲間が増えていきました。明治8年の頃、鶴岡酒井藩の藩士がここから鹿児島まで歩いて行き学んでおりました。伴兼之、榊原政治の二人、当時20歳位です。戦争が始まるから荘内に帰るように諭されますが、どうしても西郷先生と共に戦いたいと戦争に参画します。そして二人とも戦死しています。榊原の兄は官軍で、熊本の田原坂(たばるざか)で兄弟が戦いました。この田原坂では一日200名程、戦死しています。夥しい鉄砲の戦いで、官軍、薩摩軍の双方で撃った玉が空中でぶつかるという、雨の如く玉が行き交う戦いで、今も玉が沢山落ちています。この二人の墓は南洲墓地の西郷先生の墓石の近くにあります。

徳の交わり この銅像は、右側が西郷隆盛、左側が菅実秀です。西郷隆盛の南洲は南の島という意味で、島流しになっていたことからつけられました。菅実秀の臥牛は鶴岡の酒井藩の中老であった菅実秀の家から月山を見ると、牛が寝そべっているように見え、それがお気に入りで、自分の雅号を臥牛としました。明治元年、戊辰の年1月3日、鳥羽伏見の戦いが始まります。戊辰戦争の発端です。東北一円でも戊辰戦争の戦いがありました。新潟長岡、会津藩が降伏する中、酒井藩は一番最後まで戦いました。しかし9月27日に帰順降伏しました。その日、西郷隆盛は荘内に入り、致道博物館の近くに二晩宿泊してます。酒井藩のお殿様は、厳しい処分があると覚悟をしました。ところが、西郷先生の計らいで王道的な敗戦の処置で終わったのです。それに感動した当時の酒井忠篤(ただずみ)公は、明治3年に76名で鹿児島まで行き、西郷隆盛に教えを請いました。その後、選りすぐられた藩士が鹿児島に行き勉強をしました。当時の道中日記によれば、約1,800㎞を1時間で4㎞、1日10時間で40㎞歩き、1ヶ月以上かかったようです。菅先生も明治8年に鹿児島に行き、様々な教えを頂きながら、西郷先生と歓談相照らし、「徳の交わり」を誓いました。この銅像は鹿児島の武屋敷に全く同じものがあります。鹿児島で作った物の型を借りて作りました。庄内藩のお殿様を始めとした人々は、鹿児島の西郷隆盛が住む武屋敷を訪ねました。現在は公園になっています。残っているのは井戸だけで、松の木も当時の松ではありません。この「敬天愛人」は天を敬い、人を愛するという意味です。左側に南洲書と書いてあります。これは西郷先生が作った言葉ではありません。敬、天、愛、人の文字そのものは、中国古典の書経の中にでてきます。西郷先生は勉強を重ね、文字を組み合わせて「敬天愛人」にしています。西郷隆盛は、自分で作った言葉は「南洲」、そうでない時は「南洲書」と最後に印します。

南洲会館
会館の成り立ち この会館は、勉強をする場所です。毎月第二土曜日、人間学講座をしています。会員の皆さんには葉書で御案内し、コミュニティーしんぶんでもお知らせします。参加は無料ですので、ぜひ、ご参加ください。午後2時から2時間、1時間は論語、残り1時間は我々の社会生活に役立つことを取り上げています。ここには、掛け軸が一千幅以上あります。今月は、幕末の三舟、右が高橋泥舟,中央が山岡鉄舟、左が勝海舟です。毎月掛け替えています。安岡正篤氏が書いた「寒梅月裏香」の書があります。寒梅は寒い冬に耐え、春になれば花を咲かせ匂いを放ち、黙っていても月の裏まで寒梅の香りが届きます。人も努力をすれば、いつかその努力は人の知るところとなりますという意味だそうです。

狩りと犬が好き 明治4年から5年、明治政府に貢献し、廃藩置県などで忙しい日を送っていた頃に書いた真筆の掛け軸があります。お金も官位もいらない西郷先生ですが、犬の「ツン」と一緒の狩りだけは手放せないものでした。高村光雲が上野の山に作った有名な銅像の犬が「ツン」です。『山に行って狩りをするのは薬に勝るもの。連日の雨が晴れて、私は兎を追いかけ、獲物が隠れていそうな藪の中を探し、犬をつれて歩き険夷の事を忘れました。帰って来て、粗末な夕食であってもそれを食べ、風呂に入り、疲れも感じない、猟をして遊ぶということはいいことだな。少壮の45歳にもなって狩りをして遊ぶということはいいことだな』と狩りへの思いを漢詩で表現しました。

牢屋生活 西郷先生は奄美大島、徳之島、沖永良部島の三つの島に流されました。その時の牢屋生活の様子を展示しています。当時の島津のお殿様が「牢屋の中で死んでくれたらありがたい」と言うほど過酷な環境にされました。牢屋は海辺に建てられ、障子もガラスもなく、台風が来ると波しぶきが直接かかりました。トイレもなく衝立で仕切ってはいますが、その排泄物に虫の大群が押し寄せました。悪い衛生状態に加え、食べる物はこの薩摩白焼きの茶碗で一日に一回頂き、それを朝、昼、夜の三回に分けて食べ、おかずはありませんでした。畳四枚分で運動も出来ず、座禅を組んでいました。体が弱り痩せていきました。
 展示されている「傳習録」は、当時牢屋の中で読まれた書物です。牢屋には二人の番兵がいて、その一人が土持政照でした。当時、土持政照は23歳位、西郷先生が36歳位でした。土持政照は牢屋に入っている人は立派な人だが、ここのままでは死んでしまうと感じていました。番兵と言えども役人ですので、両親や上司の許可を得て、島の古屋を買い取り、その中に牢屋を作り座敷牢の形にし、外トイレも作りました。海辺の牢屋はすぐに壊し、新しい牢が出来るまで、自分の家に住ませました。こうして西郷先生の命を救いました。土持政照は西郷先生の命の恩人です。西郷先生は牢屋の中で、土持はいずれは島をあげての偉い人になるに違いないと考えました。その時の為に「与人役大躰」を書きました。与人役とは村長や町長のことで、いずれ土持政照がそういう役に就くだろうと、その心得を牢屋の中で書き与えたのです。「間切横目大躰」という刑務官としての心得も書いています。島津斉彬公から学べと頂いた嚶鳴館遺草(おうめいかんいそう)も、牢屋の中で書き写し土持政照に与えました。上の部分は西郷先生が書き、下の部分は沖永良部島で書や漢詩の先生だった川口雪篷(かわぐち せっぽう)先生が書きました。川口雪篷先生は、西郷先生が明治10年で亡くなった後も、死ぬまで西郷家の為に尽くされました。鹿児島の南洲神社にある西郷隆盛の墓の書は、川口先生が書いたものです。
 牢屋の中で使われた食器には、特徴がありました。西郷先生は、一日一回茶碗に盛られたご飯を三回に分けて食べました。南国でも冷や飯になってしまうので、茶碗の上の方からお湯をかけてご飯を温めました。その為、茶碗の下の方には流れるように穴が開いています。牢屋の中には火鉢だけはあったので、お湯を沸かしたり、酒を燗して飲みました。 牢屋の中で、釣りで使うルアーを作りました。針をシッポの方につけ、開いたところに重しをつけました。このルアーではイカがよく釣れました。漁師に頼まれ貸すとルアーを返さず、イカを持ってきたので、西郷先生は牢屋の中でイカを釣ったと言われました。この材料は、南国の匂いのする珍しい木です。糸は西郷先生が撚ったものでシュロ縄です。

鳥羽伏見の戦い以降 1月3日の鳥羽伏見の戦いでは、薩長軍が3,500人程、徳川慶喜公は2万人以上でしたが、見事に薩長軍が勝ちました。当時の朝廷から貰ったご褒美でたばこ入れ、小物入れがあります。西郷札は明治10年2月から発行されました。兵隊の数が増え財政的に苦しくなり、自分でお金を作りました。熊本の一部で流通し、農家では米に、呉服屋では衣類に、味噌醤油とも交換できましたが、明治政府にて処分されました。
 

結婚 西郷先生は、三度結婚をしています。1度目は23歳のとき鹿児島で伊集院さんからお嫁さんをもらいましたが、貧乏の為、逃げられてしまいました。2度目は奄美大島の愛加那と結婚して、二人の子供をもうけました。西郷菊次郎はその時の子供で、後の京都市長です。3度目の妻は糸子で三人の子供を、もうけています。

南洲翁遺訓の刊行 明治10年に西郷先生は亡くなります。その知らせを聞いた荘内の人々の悲しみは言語に絶するものでした。その後、明治天皇が西郷先生の賊名を解かれ、それを記念して菅実秀翁公は西郷先生の偉大な人徳と精神を後世に伝えようと、明治23年1月に「南洲翁遺訓」を刊行しました。酒井忠篤公は全国各地の心ある人にこれを配布しました。その志を受け継ぎ、長谷川氏は自費で約3万冊近くを無償で配布しました。現在は、長谷川氏の志を荘内南洲会が引き継ぎ、現在も無償で切手代もこちらで払って全国に配布しています。人間学講座は一度も休まず無料で開催してきましたが、3.11の震災の時だけはできませんでした。
 西郷先生の教えは今も魅力があり、多くの人を引きつけます。南洲神社を紐解けば、戊辰戦争から現代まで脈々と繋がる庄内藩の志の歴史があります。知る人ぞ知る南洲神社と記念館、人間学講座に触れてみる価値はあるのではないでしょうか。

*聞き取り協力 平成25年10月30日(公財)荘内南洲会会員*

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