湊町さかた観光ガイドテキストブック 「ぐるっと、酒田 まちしるべ」

第七章 向酒田界隈
5.石井梅蔵記念館

石井梅蔵の生涯
 石井梅蔵翁は、明治、大正、昭和において、人々が考えられないような苦難に遭いながら、その都度、人の為、社会の為を心願として、三度の決断と誰も考えられないような創意工夫によって、全盲になりながら幸せとは何かの悟りを開いた方です。
 明治29年、宮大工の菊次郎氏の長男としてこの地で誕生しました。父は宮大工の棟梁を務めるほどの技術を持っておりましたので,長男の梅蔵氏も大工の技を父の下で30歳まで修行しました。大正15年に長男誕生を機に農家の過酷な労働が少しでも楽で早くなるように農業機械の発明に自分の一生をかける決断をし、人力、畜力時代を動力時代に入る始めての決断でした。
 昭和15年頃、石井農機は妻と女中と自分と社員4名でした。以来、除草機、飼料用カッターのエンシレージ型、ロータリー型、脱穀機、籾すり機、脱穀と同時に玄米になる自動送り込み脱皮機、失明中の昭和33年から35年にはバインダーといわれる刈り取り結束機の発明と試作を行い特許、実用新案、数件を認可されました。見えぬ身で作り上げた世界最初の試作機です。この後、6年を通じて各大手メーカーがバインダーを作り、大もうけをしました。農家も農機具業界もこの発明によって異常な進歩を遂げ、やがて自脱型コンバインに進展します。翁は自分の考えが活用された事のみを喜んだそうです。これら数々の発明によって昭和44年に黄綬褒章を受章しました。昭和23年、脱穀機の試験中に籾が角膜に突き刺さり、「しまった」針で突き刺すような痛みを感じた時はもう遅く、急に視力が衰え、二度と光を取り戻すことができなくなりました。「もう55歳も近いというのに目が見えなくなるなんて、なんとオレは運の悪い人間なんだ。生きていても妻や小さな子供の足手まといになるようなら、いっそのこと死んだ方がいいのではないか」暗黒との戦いに疲れ果て、自殺を決意した事が幾度となくあったと言います。角膜移植を行ったりして、3年もの間、治療に励んだ結果は悲しいことに昼夜のわからない全盲一級の宣告を受けたのです。
 それ以来、何もしない昼夜を問わない暗黒の世界は焦りと不安と焦慮にかられ、絶えず死を考えたそうです。生か死か一生続く暗黒の世界を脱出できるかの岐路で、もっとも難しい生きながらの苦しみを超えようとした第二の決断でした。なにもしないからこの恐怖に負けるのだ。自分が熱中できるものはないものかと、若い時に修行した大工の技を利用し手探りで何かを作ってみようと考え、茅と杉皮と竹で始めて作った作品がこの五重塔です。以来、25年間81歳まで53体作り続けました。作品には鬼気迫る迫力と堂々たる風格、そして童心に返って思わず微笑まれる作品もあります。昭和23年に目を傷つけてより、成せば成るの不屈の精神で作り始めて8年、昭和35年にやっと自分の生きがいを見つけました。作品の製作を決意した28年までは地獄の苦しみであり、可能性に挑戦し製作するには5体全てが目であり、物差しであると,両手で大木の大きさを測り、杖で擬宝珠の高さを測り、意欲満々で命の限り昼夜を問わず作り続けました。昭和35年、日本は福祉15年のお祝いがあり、東京三越本店にて全国より参加した障害者の作品展がありました。石井の作品も展示され、昭和天皇、皇后、三笠宮の天覧を賜り、一躍有名になり、映画のニュースや今日出海氏との対談などがテレビで放映されましたので、実物を自分の目で見たいという人が急増しました。その要望に応じ、各地で開かれた展示会の入場料や善意の寄付金を全て自分と同じ盲目の人の為に尽くす第三の決断をし、盲学校に寄附するなど、自分の新しい生き方を見つけられ、家族にも嫌な事や暗い思いをさせず、孫達にとってはいつも良い話相手でした。翁は目の明かりを失って、心の光を得、幸せとは何かを知ることができたと明るい声で81歳の天寿を全うし、それが認められて勲章を受章した笑顔の石井梅蔵翁の作品です。勲章は勲五等双光旭日章でした。ある方があなたは目が見えなくてもこれ程の作品ができた人ですから、目が見えていたらどんな作品を作っていたでしょうかと言いました。翁は、盲人になったからできたので、見えていたら財布の中が心配で何も作れなかったでしょうと笑っていたそうです。皆さんに天守閣や建築物は目が見えないのにどうやって作ったのか聞かれます。これは盲人の方以外にも使われる、設計図代わりの四面杓定と箱形加工柱の発明があったのです。石井梅蔵翁の知恵のすばらしさです。
 館内は入って右側は日本の代表的な建築物で、正面は天守閣、左側は動物の彫刻で、中央は昭和初期の農作業風景で作品は三つに別れています。又、父である菊次郎を先生として学んだ生花は失明後も時々生けていましたが、その基本形11は一眼を失い一眼で絵として残しました。昭和15年頃から盆栽を愛し、数多くの鉢があり、自分の足の運動も兼ねて水やりを毎日の日課としました。当時の鉢の空いた物をここで展示しています。中には貴重盆器の中国鉢も数多くあるようです。翁は盆栽を愛し、生花で美しさを養い、詩を作り、誰とでも話ができる心の広い方でした。盆栽は死後10年後、昭和62年に国風盆栽展に入選しました。100年を超す銘木も数多くあります。 (ビデオ説明より)

石井梅蔵の作品 石井梅蔵記念館には、全盲の人が一人で作ったとは思えない、見事な作品が展示されていました。作品の元となる部品作りは、石井梅蔵ならではの工夫でした。寸法は自分の五体を使い、指と指の間の寸法、腕の寸法などから割り出しました。材料や色味の違いは、舐めた味で判断しました。主に150年から200年の欅の皮を用い、竹釘を一本一本手作りし、平面図を取ってから彫刻し、竹を小さく切って組み立て、一つ一つの細かいパーツを作りました。苦難の末、全盲から4年経た昭和28年、最初の作品である五重塔が完成しました。しかし、東北の竹は虫が付きやすく、黴びやすかったのです。完璧を求め、昭和38年に同じ五重塔を再び作りました。高さが3メートルありますが、十段階程をはめ込む作り方で、地震がきても倒れない設計になっています。これは羽黒山の五重の塔と大山の善法寺の五重の塔の二つを組み合わせて作ったものです。家人が京都、秋田の材料を取り寄せ、助手や専門家の手も借りず、一人で部品作りから組み立てまでを行いました。一日8時間作品に没頭し10ヶ月で作り上げました。前半の5ヶ月はパーツ作り、後の5ヶ月は組み立てに要し、作業着の右の袂に右の部品、左の袂に左の部品を入れました。
 53歳で全盲になる前に、京都、大阪等を見て歩いた記憶から、縮尺した物を設計して作品を作りました。3ヶ月間で作り上げた、三重の塔が一番お気に入りの作品でした。菊の紋は、金太郎飴の作り方を応用しています。細工した竹を長く作って、輪切りにして使いました。宮大工の反り具合は法則があって、普通の大工ではわからないそうです。宇治の平等院鳳凰堂は、見たことがありませんでした。口伝えで作ってみたら、寸法がまちまちで失敗に終わりました。そこで、一級建築士の方から一週間から二週間位通って頂いて、頭の中に縮尺したものを作り上げて、昭和39年から昭和41年の1年8ヶ月かけて作りました。材料費だけで9万5千円位、現在のお金で120万円位かかりました。銀閣寺は中の方は畳が敷いてあり、障子もあります。開け閉めできる一軒の家と同じ仕組みでできています。京都に行かなくても、20分位で京都見物できると言われました。金閣寺は焼失する前のものです。現在の物とは違っているようです。
 1年6ヶ月かけて作った大阪城の天守閣は、門を開け閉めすると、本物と同じ「キィー」と音を出します。京都の竹でないと出ない音です。巻紙になっているお経を6百巻収めている経蔵、蛙の人力車の綽、これらは10万円の保険をかけ、東京の三越デパートに出品し、天覧され、厚生大臣賞を頂きました。昭和35年、天皇、皇后、三笠宮様が、石井梅蔵の作品をご覧になっているご様子が写真に残されています。
 石井梅蔵の作品は、建物だけではありません。相撲の取り組みをしている蛙は柏鵬時代を現し、行司も鶴岡出身の木村庄之介を現しているそうです。竜宮城はお孫さんの為に作りました。魚の鱗や魚籠を木目の表情で使い分けています。白鳥の湖の感じを出すために鏡を利用しています。
 農機具が、手作業から農機具に移る課程を彫刻した作品は、明治百年祭を記念して百体作る予定でした。32体で終わりましたが、一体一体心を込めて作っています。昭和44年、74歳の時、モスコーの老父という彫刻を元に製作した作品が最後で、以後、中脚にかかり、作品はありません。
 全盲でありながら、心眼で沢山の作品を作り上げました。自分の指を10人の職人と呼び、。鶴岡盲学校の生徒に、全盲でもこれくらいやれることをよく話し勇気づけました。発明と工夫で苦難を乗り越えた人の偉業に驚くばかりです。

 *聞き取り協力 平成25年10月30日 記念館職員*

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