湊町さかた観光ガイドテキストブック 「ぐるっと、酒田 まちしるべ」

第九章 飛島
2.飛島 コース1(西海岸)

離島 クラブツーリズム主催の「日本海に浮かぶ花咲く浮島感動の海岸線 飛島・粟島」ツアー(約40名)に同行しました。定期船「ニューとびしま」に乗り、1時間15分程で勝浦港に到着しました。これから舘岩から明神の社を通り、荒崎の丘で休憩して勝浦に戻る、およそ2時間半のコースを歩きます。この島にはタクシーはありませんし、疲れたと言って休むクーラーの効いた休憩所もありません。トイレも途中に2ヶ所しかありません。車も通れない海岸や林道を歩きます。無理は禁物です。60代~70代の参加者の中には、体力を考え途中で引き返す予定の人もいました。

イカの島 心地よい風の中、晴天に恵まれ出発しました。マリンプラザは、定期航路とびしまの乗船券発売所です。二階には食事をする場所もあります。この建物はイカをデザインしています。江戸時代、殆ど米のとれない飛島から藩への年貢はスルメでした。10万枚を納めた時代もあり、一人当たり約440枚の年貢を納め、飛島はイカの島と呼ばれました。

電気 昭和29年に電気が通じました。玉音放送は聞けず、次の日に終戦を知りました。この発電所ができて、生活は便利になりました。しかし洗濯機が入り、元来不足していた水は、益々、不足しました。現在、水不足は解決しましたが、ここに住んでいる人は減る一方です。240人位の住民票がありますが、暮らしている人はこれよりも少ないです。

海釣り公園 海釣りが簡単に出来ます。強い偏西風で大火になる酒田と違って、飛島では舘岩が屏風となり風を防ぎます。それが港の海流に影響して、天然の良港になります。江戸時代、沢山の船が風待港の飛島に寄ってから酒田へ向かいました。避難港としての役割も果たしていました。

ウミネコ 天然記念物になっているウミネコです。ニャォーニャォーと鳴くことから、この名前がつきました。一時期4万羽位いて、真っ白になる程でした。御積島の方にも沢山繁殖しています。気候が温暖なことと、食べ物が豊富に海にあることから、繁殖していきました。ところが、去年の4月に爆弾低気圧があり、海の底が撹拌され、ゴミが水中に浮かび、小魚が死んでしまいました。餌がなくなり、ウミネコは7千羽位になってしまいました。
 以前は、船が入ると纏わり付き、「かっぱえびせん」を欲しがりました。今は鳥インフルエンザの関係で餌付けが禁止されています。この季節は雛が孵る頃なので、余計に静かです。ウミネコは、漁師が捨てた魚の臓物を食べます。自然の摂理に合う生息状況です。

舘岩 古い時代に、日本以外の人達の蹟があります。渤海の辺りの人達とも言われています。頂上にある謎の石塁砦や、読めない岩絵文字が刻まれた岩など不思議な岩山です。まだ解明されていません。神様が下りる場所だったとか、海賊が隠れて住んだとか、戦争に負けた人が逃げてきたかと言われている謎の岩山です。

小松浜 飛島唯一の海水浴場です。江戸時代、若い役人が一人で年貢の管理に派遣され、島の娘と恋仲になりました。役目を終えた役人は本土に帰り、娘は舟を漕いで追いかけ、帰らぬ人となってしまいました。酒田まで39.5km、男の人が漕いで7時間から8時間かかります。その悲恋の話から、恋の成就を願い恋待ち浜と呼ぶようになり、小松浜という名前が付いたと云われています。(一つ目のトイレがあります)

ハヤブサ 目の前の岩に残る白い糞は、ハヤブサの巣がある証拠です。現在、つがいのハヤブサが二組から三組いるようです。パタパタと早く飛びます。ハヤブサはウミネコの卵や幼鳥を食べてしまうので、ウミネコはこちら側には近づきません。

イタドリ 名前の由来は、至る所に生えることから命名されました。飛島のオオイタドリは、若い時は食用にされ、成長すると薪になりました。島民総出で刈り、皆で分けました。島では、生きていくのに必要な燃料や水が足りませんでした。オオイタドリを勝手に採ることは禁止されて、規則を破ると島民から排除されました。

海蛍桟橋 夜は海蛍の夜光虫と天の星でロマンチックです。昼にはウミウシが見られます。3.11の地震でこの遊歩道は壊れて通れませんでした。その後、去年の爆弾低気圧でも壊れました。ここから足元が非常に悪くなります。気をつけて歩いて下さい。もう携帯電話は通じません。

柱状節理 吹き出したマグマが冷え固まる時にできた柱状の割れ目を柱状節理といいます。その柱状節理がよく発達しています。福井県の東尋坊と同じです。岩が細かくとがってギザギザになっています。鳥海山と富士山が姿形を較べ、負けた怒りで頭が飛び、飛島が出来たという伝説がありますが、鳥海山と飛島では地質が全く違うそうです。飛島は、能登半島から佐渡島、粟島、飛島、男鹿半島、奥尻とある奧尻海嶺の中の一つで、岩の成分や形状から飛島の成り立ちがわかります。

トビシマカンゾウ 観光客の目を楽しませ、漢方薬にも使われる甘い草です。昔は、新芽や花は胡麻和えやお浸し、茎は塩付けにして食べ、葉は草鞋を編み、全て使い切りました。現在は、自生している花を勝手に採ってはいけない規則です。自家栽培のものしか食べられません。

 岩場に咲くスカシユリは、花びらに手をやると透けて見えることから名付けられました。キリンソウ、ハマボッスなども咲き、歩き疲れた方々には何よりの薬です。

佐渡の赤玉石 飛島でよく見られる赤っぽい岩石は、今は採れない大変高価な佐渡の赤玉石です。何百万円もする赤い石ですが、岩を削って持っていくことはできません。岩には海藻の死骸が白く付着しています。他にも、岩のりやアラレタマビキ貝が付着しています。

クリーンアップ作戦 この辺りは、大変ゴミの集まりやすいところです。年に2回、ボランティアによるクリーンアップ作戦が行われます。島民が減少する中、ボランティアに助けられます。重くて動かない流木は、その場で焼いて処理します。

賽の河原 ここで、観光協会の注意を伝えられました。賽の河原には、不思議な話が残っているからです。幾つかの石の山は、人が積んだものではなく、自然の風、海の流れで積み立てられたものです。工事中の人は、ここで変な音を聞き、恐くて逃げ出したという話しがあります。また、石を持ち帰った人には、不幸な事が起こったり、船のエンジントラブルが起こったりするという言い伝えがあります。子供が親の為に積み、鬼が来てそれを壊すという霊場の石には、手を触れないで下さいということでした。飛島は独特な神の島ですので、言い伝えは守らなければなりません。
 賽の河原にある玉石は特徴があります。崩れ落ちた材木岩の六角の玄武岩が、海の中で他の石や波に揉まれ角が取れ、きれいな玉石になっています。この島は4回隆起しています。向こう側にも同じようなところがあります。この中には、飛島にあるはずのない黒曜石が入っているそうです。賽の河原を抜けると、ロウソク岩があります。

明神の社 石塀の中に明神の社があります。石塀は幾何学的に積まれ崩れないそうです。海の拠点の一つだっだことから、海人族(あまぞく)が故郷の家を模倣し積んだとか、この神社を外敵から守る為に積んだとか、海賊が住み隠れる為に積んだとか言われています。
 マップの中村地区にある小物忌神社は、実は「おおものいみじんじゃ」と読むのが本当です。明治元年、神祇官が神社の検査に来ると聞き、「大物忌神社の神様を持っていかれる」と不安になった島民は、大物忌神社を大宮神社と名前を変え、明神の社を大物忌神社と偽り案内をします。大物忌神社のご神体は巫女さんが手に握って山の中に隠れていたそうです。島の人は神様を持って行かれないように考えました。明神の社と言われている神社は、従来は小物忌大明神でした。屋根には「小」の文字があります。しかし明治9年から遠賀美神社と名前を変えました。
 飛島には二つの遠賀美神社があります。マリンプラザの隣にある遠賀美神社は、御積美大明神とも言われています。島から1.4キロの海上にある御積島の岩屋がこの神社の本殿です。明神の社はマリンプラザ隣の遠賀美神社の摂社と位置付けられいます。飛島は御積島に続く島全体を使った神の通り道があります。

御積島 大変意味のある大切な島です。洞窟から海の中に入り、竜宮城に行ける島と言われています。女人禁制で、入り口の穴のところが金色に光っています。魚を釣る人は必ず御積島に行ってお参りをしてから行ったそうです。実は、金色の鱗は、ウミネコの糞の化学変化だと解明されました。しかし、地元では龍の鱗と信じられています。ウミネコの繁殖地として国の天然記念物に指定されています。

 飛島の形は、何十万年もの間、浮いたり、沈んだりを繰り返した証拠です。浮かんだ時に波から洗われ平たくなり、この形になりました。昔は本土と陸続きでしたが、850年に東日本大震災のような地震が出羽国にあり、島になったと考えられています。 この辺りには小さなホソウミニナと呼ばれている巻き貝の殻や、瑪瑙の一種で透明な白っぽい小石、青い石や赤い石等があります。飛島では短い間隔で、石の形や素材が変わります。

盲島・鳥帽子島・西島・二見島 玄武岩柱状節理の市天然記念物です。オバフトコロの浜には、ジジ石とババ石があります。勝浦、中村、法木の3地区が海を分割し漁場としています。沖から見てジジ石ババ石を直線で結んだ延長線上が、勝浦と中村の漁場境界線です。現在、島民がこの海岸を歩くことは、殆どないそうです。観光客の方だけです。

トビシマカンゾウと北前船 トビシマカンゾウは鳥海山に咲くニッコウキスゲの変種ですが、飛島と佐渡にだけ生息しています。名前の由来は、飛島での発見が早かったからです。佐渡の人は、ただのカンゾウと呼ぶそうです。この花と北前船には繋がりがあるそうです。飛島は北前船の風待ち港、日和待ちの島でした。佐渡島も北前船の寄港地でした。トビシマカンゾウは、鳥や風に運ばれ船で入ってきたと言われます。確かに寄港地ではなかった粟島には花はありません。酒田は北前船で繁栄しました。北前船は、貴重な食べ物も運んできました。当時の食材が今に残る祭りのごちそう「マスのうどんあんかけ」の葛粉は、北前船が運んでくる貴重なものでした。江戸時代には、味噌も貴重でした。大豆がこの辺りでは採れなかった為です。お客さんが来ると、ごちそうに味噌汁や弁慶飯を出しました。

荒崎の丘 見晴らしのよい荒崎の丘で休憩をしました。ここから散策路を通って戻ります。小さい島のどこを歩いているのかわからないまま、ガイドさんの後ろを遅れないように従います。携帯電話が通じない場所は、不安がいっぱいです。林の中に二つ目のトイレがありました。歩く事が辛くなってきた頃、草原のなかにポツンポツンと畑が点在し始め、一安心しました。
 飛島は本土から39㎞離れ、海に隔離されています。ミツバチは8㎞しか飛べませんので、飛島での不純な交配は不可能です。ここでは、純粋種の種を採ることができます。純粋のソバの種、ごどいもなど、飛島産の貴重な産物があります。ごどいもはじゃがいものことで、運ぶ時の「ごどごど」の音や、煮る時の「ごどごど」の音から名前が付いたと言われています。作り手が高齢化し、ますます放出畑が増え、山に戻っていきます。珍しい菜種畑があります。細々ですが、畑を続けている人がいます。ここでは、ウミネコの糞が肥料になります。
 別れ道には必ず標識があって地図にある番号が書いてあります。

*聞き取り協力 平成25年6月22日 酒田市観光ガイド協会*

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