酒田商工会議所100年の軌跡 ―激動期―
商業会議所から商工会議所へ。
商工業者の地域別組織であることを明確に。
全国商業会議所連合会を主体とした「商業会議所法」改正の動きは昭和2年(1927)4月5日の「商工会議所法」公布となり、それは翌3年1月1日から施行された。中央組織としての日本商工会議所の創設は、同3年4月10日である。日本商工会議所設立総会に出席した全国の会議所数は75、出席人員は160人であった。酒田商工会議所からは荒木幸吉会頭、伊藤信成理事の2人が出席した。
新法は、商業会議所を商工会議所と改称することによって、名称と実態とを一致させようとするものであり、商工業者の利益擁護と意志表示を図る地域別組織の経済団体であることを明確にした。
会議所の議員構成は次のように変わった。すなわち従来は企業の代表や企業の役員などで一定の所得税を納入する個人にも選挙権を与えていたが、新法は個人の選挙権を廃止して法人企業と個人企業の代表者が選挙権・被選挙権を持つものとし、商工会議所の構成母体が企業であることを明らかにした。また、議員定数の5分の1以内の議員を選挙によらずに地域内の重要商工業関係団体が1業種1人ずつ選定できる方式を取り入れ、各業種間における議員数のバランスに配慮した。
既存の酒田商業会議所は、昭和3年1月から自動的に新法による酒田商工会議所へと移行したが、全文106条からなる定款が認可されたのは、同年5月28日である。
第2種重要港湾編入決定に市制施行。
祝賀の花火が酒田の夜空を彩る。
酒田町民長年の宿願は酒田港を第2種重要港湾に編入し、大型船舶を安全に横付けできる岸壁を持つことであった。このため、関係諸機関への執拗な請願陳情活動を波状的におこなってきた。
大正15(昭和元)年北海道で開催された港湾協会総会は、満場一致で酒田港の第2種重要港湾編入を可決した。その具体化をめざして、酒田町長・中里重吉と酒田商工会議所会頭・荒木幸吉は昭和3年9月23日、水野錬太郎港湾協会長へ陳情書を提出、翌4年5月28日、田中義一内閣の内務大臣・望月圭介は、酒田港第2種重要港湾編入の件を臨時港湾調査会の審議に付すことを命じた。これにより6月24日午前10時より内務大臣官邸で開かれた臨時港湾調査会は、満場一致を以て原案通りに編入することを可決した。
酒田港第2種重要港湾編入を祝賀する全町あげてのイベントが、同年7月25日盛大に繰り広げられた。まず琢成第二尋常小学校体操場では、関係者600人が参列して祝意を表した。酒田商工会議所会頭・荒木幸吉は、「歴代の会頭本問題に関し苦辛画策、奔走することほとんど5代30年問に及び、この・決報に接し、地下の霊魂また大いに慰するところあるべし。(略)他日、本工事完成の暁には産業の開発、貿易の拡張に偉大な効果を奏する」と祝辞を述べた。
この時の祝賀花火大会が大好評であったことから川開き花火大会継続の声が高まり、以後、毎年この時期に、酒田商工業組合連合会主催、酒田商工会議所後援のもと、恒例行事として花火大会が実施されるようになった。真夏の夜空を彩る光と色と音のページェントの始まりであった。 次いで大きな慶事に湧いたのは、昭和8年(1933)4月1日の市制施行であった。
伊藤信成・酒田商工会議所理事は酒田町発展の二大要素として、(1)酒田築港、(2)酒田市制の施行の二つを掲げ、実利主義の立場から市制の有効性を唱えた。彼は、1)中央の会社が地方進出する時の資本投資対象は市制地を優先していること、2)市制地製品への信用度が高いこと、3)貨物の集散、金融の拡大が見込まれること、4)教育・土木・産業における優越性、などを主張した。時期尚早説を唱えていた飽海郡有恒会も市制施行に傾き、酒田町会は昭和7年5月10日の決議に基づいて、内務大臣・山本達雄に市制施行を稟請した。翌8年2月22日の官報は酒田市制施行を公表、同年4月1日から市制は動き出した。その日の午前0時、祝賀の花火が夜空に華々しく舞い上がった。
市制施行後、初の市議会議員選挙が4月24日おこなわれ、立候補者37人から30人が選ばれた。トップ当選した荒木幸吉は大正11年(1922)8月から酒田商業会議所会頭に推され、昭和17年(1942)9月までの20年問、会頭職を務めた。在任期間の長さでは、歴代会頭の中で最長であり、酒田の歴史と共に歩み続け、酒田の歴史を作ってきた人物であるといえる。特に彼が先頭になって運動を推進した懸案事項には、最上川改修事業、酒田築港、定期航路の開設、鉄道敷設(ふせつ)と急行列車の運行、電力・電話事業の充実、両羽橋の架替、国立倉庫設置などがある。
戦時統制体制に突入。
大浜工業地帯の鉄興社などが軍需会社に。
大浜臨海工業地帯にある東北東ソー化学(株)、同社の母体は、東洋曹達(ソーダ)工業(株)である。しかし、その源流は、大正14年(1925)に佐野隆一によって設立された「鉄興社」にまでさかのぼり、同社の酒田での歩みは、昭和9年(1934)に始まる。以来酒田臨海工業地帯「大浜工業地帯」の中核としてはもちろん、山形県の重化学工業の先兵としてその発展を担っていく。
酒田市制施行翌年の昭和9年、鉄興社は酒田駅の駅裏に酒田工場を設置し、フェロシリコンの製造を開始した。輸送に便利だからで、敷地は本間家の水田を譲り受けた。
12年、工場は酒田臨港地区に移転することになった。新工場建設予定土地は、酒田港改修工事に伴って造成された大浜海岸の埋立地である。大浜は、県有埋立地。佐野は、ただちに新工場建設計画に向けて行動を起こし、第1期工事として、12年から14年にかけて、1区から5区までを建設した。そして13年、鉄興社大浜工場が操業を開始する。
この頃の日本経済は、昭和12年(1937)の日華事変の開始から、太平洋戦争に至る間に、大きく変容している。戦争への経済動員の要請に応えるための計画経済システムへの転換、いわゆる「戦時統制経済」である。
そして、16年には太平洋戦争に突入、戦時経済体制は一段と強化された。戦時下の経済政策は、ひたすら「戦力の増強」をめざし、5大重点産業の航空機・船舶・鉄鋼・石炭・軽金属の生産に全力を集中することになる。
創業以来、順調に発展を続けてきた鉄興社及び関連会社は、その後の軍需拡大という国策に沿い、19年に「軍需会社法」(18年10月公布)によって、それぞれ「軍需会社」に指定された。
5大重点産業のうち、船舶の建造も焦眉の急だった。酒田で、貨物船を建造し始めた18年(1943)の上半期は、戦争はますます苛烈の度を加えていった。
造船所は、同年6月、小中島に半官半民の国策会社「山形造船(株)」として発足した。発起人は、東北興業(株)総裁・川越文雄、酒田の本間光正・荒木誠一・村田与治兵衛、その他総勢12人。取締役社長には、加茂出身の海軍技術少将・新田義雄が就任した。敷地は1万1,000坪。酒田以外にも、鼠ケ関・豊浦・加茂に工場を設置。徴用された従業員1,400人という県内一の大所帯となった。
木造貨物船(70トン)が18年にただちに竣工し、次いで250トン木造大型一番船を起工進水している。目標年間生産量は2万トンの建造を予定していた。18年度計画戦時型発注船は、70トン・100トン・250トン型貨物船の建造である。合資会社共同鉄工と東北振興農機(株)酒田工場が、エンジンの製造に当たった。同社は、付近10万坪以上を埋立整備し、現在の入船・山居町発展のみなもとを創った。
国家機構に組み入れられ、
商工会議所から商工経済会へ。
昭和15年(1940)12月7日に「経済新体制確立要綱」が発表されて以来、経済の急速な戦時体制への編成替えが続く中で、18年の「商工経済会法」公布に伴い、全国144の商工会議所が解散。従来の都市単位から各都道府県を単位とする「商工経済会」が誕生した。これにより、商工会議所が「自主的に商工業の改善・発展を図る」ことを目的としていたのに対し、商工経済会は「国民経済ノ総力ヲ最モ有効ニ発揮セシムル為国策ニ協力」(第1条)するとし、国家機構に組み入れられた。
地域経済の振興・市勢発展の礎として活躍してきた酒田商工会議所も、山形県商工経済会に統合され解散を余儀なくされた。その頃の酒田商工会議所は、「商工業者が利用するにも余りに手狭であった」ため、昭和9年に本町四丁目から本町五丁目に新築・移転していた。港町酒田の経済界を象徴する建物らしく「二階建の白亜」の近代的な建築様式だった。
商工経済会発足当時は、企業整備が進められ、あらゆる業務・業種が統制組合に組織化された。商業は許可制となり「新規開業」は認められず、現存店舗は配給所となり、統制組合を通じて流通する体制に包摂(ほうせつ)されてしまった。
転廃業者は、生産部門に「てい身」することになるが、山形県では、転廃業を容易にするため、知事を会長とする「山形県商工業再編協議会」(17年3月)を設置。その具体的な施策を実行する機関として、「山形県商工業再編成共励会」(同年3月)が組織されている。
やがて敗色が濃厚になるにつれて、米をはじめとする食糧難に国民は苦しんだ。光ケ丘の国立倉庫に米がなく、軍事用の缶詰があるだけだった。そして、ここで日満学校生徒が特殊艇の部品を作っていた。ある人は、国立倉庫に米がないのを見て敗戦を予感したという。
昭和20年8月15日正午、天皇はラジオを通じて「終戦の詔書」を放送、満州事変から14年、日中戦争となって8年、真珠湾攻撃から太平洋戦争となって3年7カ月、戦没者310万人の痛ましい犠牲者を出した長く苦しい戦争は終わった。そして商工経済会は「商工経済会の廃止に関する法律」(21年10月施行)により解散するに至っている。
酒田市略年表
- 昭和4年[1929]
- 6月、酒田港が第2種重要港湾に指定され、最上川で花火を上げて祝い、これが現在の港まつりとなる
- 昭和5年[1930]
- 5月、上水道が創設される
- 昭和8年[1933]
- 4月1日、酒田市制施行
- 昭和11年[1936]
- 3月、西埠頭(3000トン岸壁)竣工。
8月、新両羽橋竣工(714m、全国第6位) - 昭和17年[1942]
- 9月、国道7号鶴岡一酒田間の工事完成